秋山基夫『梟の歌』(七月堂、2021年8月30日発行)
秋山基夫『梟の歌』は四行で書かれた詩が百篇。私がおもしろいと感じたのは、「勤め人」。
ご近所のとらさんがきて
将棋で三番も泣かせてやると
休日はもう夜だった
サルがシンバルを叩いている
「泣かせてやる」がいいなあ。昔は、たしかにこういう言い方があった。いまは言うかなあ。ちょっとわからない。私も昔は将棋が好きだった。攻撃型の将棋で、守ることが大嫌い。ひたすら攻め続ける。そして、勝つ。単純なのだ。こういうときは「泣かせてやる」はなかなかつかえない。もっと悔しがらせないと。
私は勝つには勝つが、相手を「泣かせる」というのは苦手だったかもしれない。秋山は「泣かせる」をどういう意味合いでつかっているかわからないが、ふとそんなことを思い出した。
妙に懐かしいものがある。
「休日はもう夜だった」の転調を挟んで「サルがシンバルを叩いている」と結ばれるところもいいなあ。おもちゃなんだろうなあ。ということは、その家には子どもがいる。子どもの相手はせずに、とらさんの相手をして一日を過ごす。子ども相手よりも、とらさん相手の方がきっと気が休まる。だから、将棋にふける。しかも、相手を「泣かせる」。
でも、サルのおもちゃを見ながら、「ほったらかしにして、子どもも泣かせてしまった」と、ちょっと反省もする。こころの動きが素早いのだ。そこに詩がある、と私は感じる。
「きょうも」という作品も好き。
おばあさんは欲にとりつかれ
おじいさんは酒に酔いつぶれ
子らはとっくに遠くへ去って
お人形さんがタンスでダンス
おばあさんとおじいさんの「行動」が違っていたら、きっとおもしろくない。この詩のふたりの行動は「定型」だが、そこに安心感のようなものがある。見慣れた風景。子どもが独立してしまっている、というのも「定型」。
そしてこの「定型」には、おそろしいことに「日本語」の「定型」も含まれている。おばあさん、おじいさんは「子ら」の祖父母ではない。「子ら」から見れば「両親」である。しかし、日本語は「家族の中の一番小さい人間」を基準にして「呼称」が決まる。子らは独立して遠くに去っただけではなく、その子らには子ども、つまり、おばあさん、おじいさんにとっての孫がいる。孫といっても、なんというか、それは「小さな子ども」だね。だから、その「小さな子ども」と「大きな子ども(孫の親)」が「子ども」という時間でつながり、するりと「主語」が交代する。「大きな子ども」が昔遊んでいた「人形」、今の孫なら喜ばないかもしれない「人形」が目に入る。タンスの上で踊っている。
この「タンスでダンス」に似た感じの「音」の楽しさは、三行目の「とっくに/遠くへ」にもあるが、私は一行目の「欲」と二行目の「よい」の「よ」の呼応におもわずひきつけられた。「欲」と「よい」が交錯し、「つかれ」と「つぶれ」が入り乱れる。なんでもない「定型」が、なんといえばいいのか、「祝祭」に変わる感じ。
ただしこの「祝祭」は、終わったあとの寂しさへと急速に転調していく。楽しくて、寂しい人生。
これが、とてもいい。
もう一篇。「カモメ」
岬の空に舞うカモメさん
壊れたわたしの心を突っついて
遠くの海に捨ててください
冷たい月が出ているでしょう
読みながら、私もカモメが好きだということを思い出した。冬。私は漁港から少し離れた砂浜に立ってカモメを見るのが好きだった。漁港に群がるカモメではなく、ぽつんと離れて飛んでいるカモメ。その孤独。というのは、まあ、青春のセンチメンタルだね。はぐれた(?)カモメに自分を重ねる。ほんとうにこころが壊れていたら、こんなことはいえない。壊れる前のこころだからこそ、こころを突っついて(傷つけて)と夢見ることができる。
矛盾というか、錯覚というか。そういうもののなかに詩の出発点がある。特に青春時代の詩はね。
だからこそ、その「矛盾/錯覚」が飛躍し、「冷たい月が出ているでしょう」になる。カモメは(カモメにかぎらず、多くの鳥は)、夜には飛びません。月が出ていて明るくても、夜に飛ばない。だから、この「冷たい月が出ている」「遠くの海」というのは「空想」なのである。「想像力」の世界なのである。
「想像力の世界」といえば「壊れたわたしの心を突っついて」というのも「想像」の世界。この詩に書かれている「現実」は「岬の空に舞うカモメ」だけ。その「現実」にしたって秋山がほんとうに見たとはかぎらない。「空想の現実」かもしれないし、たぶん、「空想の現実」だからこそ、その「空想」が拡大していくのだ。
ここにはことばが暴走していく「現代詩」の「原点」のようなものがある。センチメンタルで、どこかメルヘンチックだけれど、多くの人が通る「詩」の「定型」が生きている。
私はときどき、こういうところへ帰りたくなる。
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