倉橋健一『無限抱擁』(思潮社、2021年9月25日発行)
倉橋健一『無限抱擁』の「あの葡萄の実は」に「相関関係」という言葉が出てくる。
あの葡萄の実はこちらを見ていると思ったら
そのまんま私の眼になったりする
ああそうか葡萄の実と私の眼はそんな相関関係だったのか
と納得する身振りをすると
にわかに巷にあるたくさんの組み合わせ(相関関係)が
寝汗をかくほどにスリリングな現実(もの)に思われてきた
書きたいことがいくつかある。思いつくままに(いつものことだが、結論を考えずに、という意味である)書いていく。
「相関関係」は「組み合わせ」と言いなおされ、「現実(もの)」とは「相関関係」のことである、というのが倉橋の「基本的な哲学」である、と要約できるだろう。
でも、私の関心は、そういう「要約」ではない。
私がまず最初に引き込まれ、同時につまずくのは「相関関係」ということばである。三行目の「相関関係」はなぜ「相関」関係なのか。「関係」だけでは言い表せないのか。
あの葡萄の実はこちらを見ていると思ったら
そのまんま私の眼になったりする
ああそうか葡萄の実と私の眼はそんな関係だったのか
意味(?)は通じると思う。でも、倉橋は「関係」では満足できず「相関関係」と言わずにはいられない。そして、この「相関」は互いに動く、相互性を含んでいる。「相関」は「相姦」に通じる。互いに侵し合うのだ。越境し合う。それは「組み合わせ」というよりは「運動」である。だからこそ「汗」もかくし、「スリリング」でもある。倉橋は「現実」に「もの」とルビをふっているが、その「もの」は「こと」の方が近いかもしれない。「こと」と言わず」「もの」と呼ぶのは、たぶん「現実」がかってに動き回っては困るからだろう。倉橋は「現実」が自立して運動してしまっては困ると感じているのだ。あくまで、倉橋と「相関関係(相姦関係)」としてなら存在してもいいが、倉橋の運動と無関係に「現実」だけが動き「事件」が起きてもらっては困るのだ。だから「もの」にとどめておく。
「相関関係(相姦関係)」がはじまると何が起きる。そのとき「もの」はどんな「事件」として立ち現れるか。
あの葡萄の実はこちらを見ていると思ったら
そのまんま私の眼になったりする
「なる」のである。葡萄の実が「ある」。それが私の眼に「なる」。そうであるならば、そのとき私の眼は当然私の眼ではいられない。葡萄に「なる」。入れ代わる。入れ代わるだけではなく、それは何度でも入れ代わり運動をつづける。「なる」だけではなく、つまり「なる」で完結するのではなく、「なったりする」と動くのである。
動き続ける「相関関係」は、やはり「相姦関係」と呼んだ方がいい。終わらない。あるいは、やめられない。
それは、どういうことか。
倉橋の詩には「姉さん」が頻繁に登場する。そのひとつ「隠れキリシタンの里にて」には姉さんを密告した少年が登場する。姉さんは火刑にあう。
ああ私のなかではすでに火刑台跡を目前にして戦慄(ふるえ)が全身を走っていた
少年なのかわたしなのかその分別すらつかなくなっていた
「相関(相姦)関係」が始まると分別がつかなくなる。「関係」が始まる前には存在していた「区別」がなくなる。「分別」とは「区別を意識する、その意識」のことだろう。区別があるのは知っている。しかし、区別ができない。
この「相関関係」に密接につながることばに「関数」がある。「十把一束(じっぱひとからげ)にされたくない私としては」という詩の中に、こういう行がある。二行だけ取り出したのでは「意味」がわかりにくくなるが、意味を語るために引用するのではないので、その二行だけを引用すると。
かくて、個は未開社会にあってこそ一の関数としてなつかしい思い出の中に保存された
それにしてもなんとまあもの憂い数よ(もの憂い抽象よ)
「一の関数」には傍点がふってある。強調している。「一」(個)は、どうやって認識されるのか。倉橋は「関数」にしてしまう。「関数」になる。それは「相関関係」をはじめる前に、それまでの「関係」を清算し、なかったものとする、ということである。これは「相姦関係」を、たとえば「近親相姦関係」のなかでみていくとよくわかる。弟が姉と肉体関係を持つ。父が娘と、母が息子と肉体関係を持つ。その関係をもつとき、弟、姉、父、娘、母、息子という「家族関係」は放棄される。そういう関係はなかったこととして、男と女の関係になる。この「家族」から「男と女」に変わるときのありようを、「個(自分)」を「一の関数」としてとらえると言いなおすことができるだろう。もちろんこれは「意識の操作」だから、どこに廃棄しても生き続ける意識があって、それが「近親相姦」の感情を複雑にするのだ。こういう複雑な「関係」を望まないものは、そもそも「個」を「一の関数」などにしたりはしない。「一の関数」というのは、それこそ「抽象」であるが、こういう「抽象」へ人は安易に入り込まない。入り込まないことによって、「関係」を「関係」のままおしとどめ、「相関関係」にも入り込まない。
けれど、倉橋は「相関関係」に欲情するのである。どんな「関係」も「相関関係」にしてしまわないと落ち着かない。さらに「相姦関係」に踏み込んだときにこそ、倉橋は安定する。安心する。
これを先に出てきた「分別」ということばをつかって言いなおせば、「分別がつかなくなる」ということである。「分別がつかない」のに「安心する」。そこを自分の「理想の場(?)」と思うのはなぜか。
倉橋の今回の詩集のなかから、もうひとつ重要なことばを指摘するとすれば、それは「溶ける」である。「あるときも」に出てくる。
あの濃霧は私に忘れさせることはないだろう
手を伸ばせばすぐ届くところに居ながら
あの人の姿はしぶとき
この自然の昏(くら)いきつい装いのなかに溶けていった
私はもう手当たりしだいに呼び続けるしかなかった
ここでは「溶ける」は「理想の状態」ではないように書かれているが、「私」が「あの人」といっしょに「溶けていけない」から「呼び続ける」のである。逆説的に「溶けたい」という気持ちが書かれている。
これは、こうも言いなおされる。
あの濃霧は私に忘れさることはないだろう
なんといっても姉さん! 霧に溶けていったあなたのからだ
じわじわと霧は私の目、私の手、私の足に襲いかかり
恐いことなんか少しもないのにまったく動けなくなってしまった
身近な彼方にでもあの人は(そのときも)居るはずだった
このとき「私」は「霧」になっている。葡萄の実が私の眼になったのと同じように。「相関関係(相姦関係)」はそのようにして成立するのだ。「身近な彼方」という矛盾した状態。こういう状態を「無限抱擁」と倉橋は呼んでいる。拡大し続ける「相関関係(相姦関係)」が倉橋のことばの領域である。
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