詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

現代詩講座再開

2022-07-11 22:33:52 | 現代詩講座

現代詩講座(メール、テレビ会議)を再開しました。
20行1000円、その後20行単位で1000円追加。

テレビ会議は30分1000円です。

詳細は、
yachisyuso@bmail.com

までメールで問い合わせてください。

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安倍暗殺と宗教

2022-07-11 14:24:26 | 考える日記

 安倍暗殺事件の展開が、私には、とても奇妙に見える。
 容疑者は、宗教団体に反感を持っていた。そして、宗教団体の幹部を狙うかわりに安倍を狙った。その宗教団体はカルトである……。
 私は無宗教(無神論者)であるから、どの宗教が正しくて、どの宗教がカルトかという区別はしない。宗教は、個人の問題であって、その好みについて、私は判断することを最初から放棄している。宗教ではなく、論理の問題としてなら語りたいことはあるが、宗教については語りようがない。

 さらに気になるのは、容疑者と宗教の関係が、彼自身の宗教ではない、ということである。彼が統一教会か何かを信じていて、その教義にしたがって安倍を狙ったというのなら、まだ「カルト宗教」と犯罪の関係を追及するということも意味があると思うが、新聞の報道で読む限りはそうではない。むしろ、母親を奪い去った宗教を憎み、それが行動の発端のように書かれている。
 そうであるならば、彼は「カルト宗教」の反対側にいることになる。
 それなのに、なぜ、彼自身が信じてもいない宗教が問題視されるのか。

 また、安倍がその宗教と関係があったから狙われたというような具合に読むことができる報道もある。そうであるなら、そのカルトと分類されている宗教を信じていた安倍に問題があり、容疑者には問題がないという具合にも読むことができる。安倍はカルト宗教を信じていた(利用していた)から、犠牲になったのだ、と。 
 いわば、そういうものを信じた安倍が悪い。こう考えると、宗教を持ち出してくることが、見当違いだとわかる。

 考えなければならないのは、いま、ここで宗教を持ち出してくる「意味」である。

 自分の信じていない宗教を「カルト」と認定することで、何か、自分の信じていることを守ろうとする別の「論理構造」がそこには存在しないか。
 自分とは違う存在を攻撃・排除することで自己自身を守ろうとしていないか。
 容疑者の犯行を批判することと、彼が信じているわけでもない宗教を批判することは、別問題なのに、何かが混同されている。そして、その混同を支えているのが「排除の論理」なのである。彼は、ふつうの人間ではない、という判断である。
 もちろん人を殺すくらいだから、彼は「ふつうの人間」ではないだろう。しかし、その「ふつうではない」の定義をどうするかが、問題なのだ。
 この問題を、宗教と結びつけることは、とても危険だ。個人のこころの自由を踏みにじり、ある特定の宗教をおしつけるという動きが次にやってくるはずである。

 統一教会に対する「排除の論理」は、つぎつぎに小さな宗教団体に適用され、疑いの目で見られる。それはやがて、私のような無神論者にも向けられるだろう。政府が推奨する宗教(靖国神社の宗教)を信じない人間は、政府に敵対する人間である、という具合にである。そして、それは宗教だけではなく、やがて政府の政策に反対する人間は、政府の要人暗殺計画を企てている人間である、という具合に論理を飛躍させることになるだろう。その論理飛躍の「萌芽」のようなものを、私は感じている。

 だれが計画し、準備したことなのかわからないが、「事件背景を説明する論理」については、慎重に見極めなければならない。安倍利用の動きは、「弔い合戦(弔い選挙)以外にも、こんなところにもあるのだ。

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