詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「小さい子供のように」、杉恵美子「蛍火」、徳永孝「雨の日の窓」、木谷明「あの時から」、青柳俊哉「窓」

2022-07-30 22:02:36 | 現代詩講座

池田清子「小さい子供のように」、杉恵美子「蛍火」、徳永孝「雨の日の窓」、木谷明「あの時から」、青柳俊哉「窓」(朝日カルチャー講座・福岡、2022年07月18日)
 受講生の作品。

小さい子供のように  池田清子

小さい子供のように
楽しい時は 楽しいと詩いたい
悲しい時は 悲しいと詩いたい
淋しい時 淋しいと詩いたい

せつない時も
むなしい時も
思いが言葉にならない時も
小さい子供のように
ただ ただ 大きい声で
泣きながら詩いたい

 二連目の「思いが言葉にならない時」が、とてもいい。それで、受講生に「思いがが言葉にならない時」とはどういう時か、質問してみた。ほかのことばで(自分のことばで)言い直すと、どうなるか。
 たとえば「楽しい時」「悲しいと時」「淋しい時」「せつない時」「むなしい時」は、思いがことばになるのか。「楽しい」「悲しい」「淋しい」「せつない」「むなしい」は池田にとって「言葉」なのか。
 最後に「泣く」という動詞が出てくる。「楽しい時」は泣かずに笑うかもしれない。しかし、うれし泣きというものもある。「悲しいと時」「淋しい時」「せつない時」「むなしい時」は泣くかもしれない。
 なにげないことばだが、いろいろな感情(名づけることのできない感情)を「思いが言葉にならない」と言い直した瞬間に、感情が凝縮する。感情が凝縮するから「大きい声」になる。
 「言葉」と「声」が対比されることで、「声」の方が「肉体」に近い感じがつたわってくる。

蛍火  杉恵美子

大きな変動の中で
小さな決意と小さな落胆
瞬間を埋める
少しの共感と少しの慈しみ
この世の呼吸を引き受けて
闇の中に凛と
光るものに
出会う時

 池田の詩が「楽しい時」「悲しいと時」と「時」を並列しながら感情を対比させているのに対し、杉は「大きな」「小さな」「少し」を手がかりに感情や意思を結びつけている。そうしておいて、「この世の呼吸を引き受けて」ということばを動かす。この「呼吸」は、なんだろう。「決意」「落胆」「共感」「慈しみ」というようなことばでは言いあらわすことのできない何かである。池田が書いていた「声」に似ている。「呼吸」は、この場合、そっと吸い込み、すっと吐き出す。そのとき「声」のかわりに、「声を殺した」何かが出て行く。
 この肉体の動きというか、呼吸する肉体といっしょに動くこころを「凛」と呼んでいる。蛍を見ながら、そういう「凛とした」一瞬を思い出しているのだろう。
 最終行の「出会う時」の「時」という終わり方に余韻がある。その「時」、杉は「呼吸」と「凛」の関係に気づいたのだろう。「時」と書くことで、杉の意識が杉自身へ向かっている、杉の中で凝縮していることがわかる。

雨の日の窓  徳永孝

外は雨
窓ガラスを流れ下(お)ちる無数の水滴

いくつかが群れるように降りていく
こちらではぽつんと一滴 自分のペースで

それらを追い越し
急ぎ降りていく水滴達
後になり先になり
互いに競い合うように

しばし留まりまた流れていく者
先行く水滴を追いかける者

並行して流れる二つの水滴
いつの間にか一諸になっている者達
そのままずっと並び流れていく者達
不意に相手を置き去りにし先急ぐ者

尽きることなく過ぎていく
それぞれの水滴の様(さま)

雨が止めば
全て終るのだろうが
このままいつまでも続くような思いで
今はただ眺めている

 二連目「こちらではぽつんと一滴 自分のペースで」の「こちら」と「自分」の結びつきが、この詩を支えている。「あちら」ではなく「こちら」だから「自分」なのである。誰かに、あるいは何かに、ここでは雨の水滴だが、それに感情移入した時、その対象が「自分」になる。感情移入をスムーズにさせることばが「こちら」であり「自分」。
 「こちら」も「自分」も、この詩は成立する。つまり、その一行を省略し、二連目と三連目を結合しても「意味」は変わらない。雨の日に、窓を水滴が走るように落ちていくという状況は変わらない。しかし、感情移入の「度合い」が違ってくる。
 感情移入の強さが、雨(粒)/水滴を「もの」ではなく「者」と呼ばせている。
 最終連に「こちら」ということばはないが、眺めている「こちら」(室内)が暗示されている。感情移入した後、放心している。このあと徳永は、完全に「自分」にもどらなければならないのだが、いまは、放心している。
 この詩には、池田のつかっていた「ただ」ということばが、やはりつかわれている。「ただ」と「ことばもなく、放心している」状態かもしれない。

あの時から  木谷明

梅雨が好き なのは
涼しくて 雨は降ってて
いうことは何もない からかな

洗濯もしない あわててしない

梅雨ではないけれど

腰高の窓から
大粒の雨が燦然と降っていた外の世界

綺羅綺羅 黙って

あの時は 知らなかった 雨だけを 見ていた

黙って

雨を好きになった時

 「ことばもなく、放心している」を木谷は「黙って」と言っているかもしれない。そして、それをさらに「好き」という感情で言いあらわしている。「好き」とは自分の心が勝手にどこかへ行ってしまって、そこへ「来い」と呼んでいることかもしれない。そこへ「行く」と自分は自分ではなくなる。これはたいへんなことなのだが、「放心」しているから、たいへんであるとも気がつかない。
 二連目の「洗濯もしない あわててしない」が不思議な効果をもたらしている。何もしない。ただ「放心」している。そして、自分ではなくなっていく。
 自分ではなくなっていくのだけれど、そのあと、それを思い出して「雨を好きになった時」と「時」へ引き返す。杉の書いていた「時」と同じ使い方だが、これも効果的だ。自省するこころというか、自分自身をみつめる静かさがある。
 四連目の「腰高の窓」の「腰高」は最近は聞かないことばだが、なんとなく「時代/過去」を感じさせて、最終行の「時」と、意味ではなく、ちょっと違うところでことばを呼応させている。そこに不思議な、ことばの豊かさがある。

窓  青柳俊哉

雪でつくられた窓
窓枠の中へ迎えいれ
去っていくものの肌を
霧が運んでいく
すべての他者にわたしがあり 
永劫のわたしはいない
他者にはみえないわたしという窓に
無限をわたる光がとけている
未知のわたしへふきわたっていく
柔らかい濃霧の肌触り
わたしにしいられる窓の
永劫の雪の肌ざわり

 詩を書く時、「課題」を出すわけではないが、なぜか、その日に集まってくる詩には共通するものがある。「窓」は徳永と木谷の詩にも登場した。この「窓」を青柳は「他者にはみえないわたしという窓」という具合につかっているが、これを「窓枠」と読み、ここから「枠」を取り出せば、杉の書いていた自他の区別、あるいはそれを超える「呼吸」とのつながりを読むことができるかもしれない。
 「すべての他者にわたしがあり/永劫のわたしはいない」という深い哲学は、世界全体と自己との融合への入り口である。ことばにしているが、それこそ池田の書いている「言葉にならない」世界である。ことばにすると、矛盾する。ここでは「わたしがあり」「わたしはいない」という矛盾が同居している。もちろん、それには前提条件があるから矛盾であるとは断定できないのだが、そういうことば(論理)を超えて動いているのが詩である。
 「すべての他者にわたしがあり」からはじまる五行は、一行一行が書き換え不能の真実であり、だからこそ論理がつかみにくい。一行ずつに立ち止まり、一行ずつに納得すればいい。もちろん納得ではなく否定という形でもいいが、大事なのは、五行全体をむりやり「論理」にしてしまわないことだ。
 それこそ、ここには「時」が書かれているのだ。

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Jesus Coyto Pablo

2022-07-30 18:33:09 | tu no sabes nada

Jesus Coyto Pablo のアトリエ。ポルトガル国境の近くの小さな村にある。
一枚目の絵は、私をJesus の世界へ導いてくれたシリーズの作品である。
私はいまスペインを旅行している。いわば空間の旅人である。Jesus が描いているのは、時間の旅人である。彼らは時間を旅している。記憶を彷徨っている。
誰にも過去がある。そしてその過去、あるいは時間というものは、不思議な構造をしている。10年前が昨日より身近にあらわれることもあれば、昨日がすべての時間を支配してしまうこともある。
複数の人物が複数の時間をかかえ、同時に存在し、生きている。
彼の絵には、いくつもの塗り重ね、さらに別の紙で描かれた張り重ねとでもいうべきものがある。
それは何かを、たとえば過去を物理的に隠そうとしているのか、あるいは隠している過去があるということをあらわそうとしているのか。両方を同時に表現しているのか。
私のことばは、あいまいなまま、答えを拒否しながら動く。

Estudio de Jesus Coyto Pablo está en un pequeño pueblo cerca de la frontera portuguesa.
El primer cuadro es de la serie que me llevó al mundo de Jesús. Actualmente estoy de viaje en España. Soy viajero del espacio. Pero, la gente que Jesus pinta es viajero en el tiempo. Ellos están vagando por la memoria.
Todas las personas tienen sus pasados. Y el pasado, o el tiempo, tiene una curiosa estructura: a veces, la memoria de diez años antes aparece  más cerca de ayer, y a veces el ayer domina todo el tiempo.
Muchas personas viven en muchas memorias, y muchas memorias viven al mismo tiempo, es decir muchos tiemopos viven al mismo tiempo con so;nosotros.
En sus cuadros hay muchas capas de pintura, y aún más capas de papel sobre el que pinta.
¿Intenta ocultar algo, por ejemplo, su pasado, o intenta mostrar que tiene un pasado oculto? ¿Expresa ambas cosas al mismo tiempo?
Mis palabras se mueven en la ambigüedad, negándose a responder.
      
記憶とは何か。だれでも知っている。かつて見たもの、聞いたもの。その形、色、音。意識のなかに再現できるもの。
しかし、もう一つの記憶がある。再現できないもの。たしかにそれは存在した。その存在したという意識はあるのに、それが具体的な形、色、音として再現できない。思い出せない。
Jesus の作品を見ると、彼は、その思い出せないものを、思い出せない形のままとらえようとしているようにみえる。
いや、そうではない。
忘れたいのに忘れることができないものを、どうしても思い出してしまうものを、消そうとしているのかもしれないとも思えてくる。
いや、そんなふうに彼の作品を見たい、私は、突然、思ってしまう。
私の言葉(意識)は、傷つき、乱れてる。

記憶には、思い出したいものもあれば、忘れたいものもある。
それは私たちの意識を裏切って動く。思い出したいのに思い出せない。忘れたいのに忘れられない。
この「意識の裏切り」こそが、Jesusのテーマかもしれない。

¿Qué es la memoria? Todo el mundo lo sabe. Lo que una vez vimos u oímos. Su forma, color y sonido.
Cosas que se pueden reproducir en nuestra conciencia.
Pero hay otro tipo de memoria. Lo que no se puede reproducir. Efectivamente, existía. Tenemos la conciencia de que existió algo, pero no podemos reproducirla como una forma, un color o un sonido. No lo recordamos.
Al ver la obra de Jesus, me parece que él trata de plasmar eso irrecordable en una forma irrecordable.
No, no.
Puede ser que esté tratando de borrar lo que quiere olvidar pero no puede, lo que inevitablemente se le recuerda.

Quiero ver su obra así, pienso de repente.
Mi lenguaje (conciencia) está dañado, perturbado.

Algunos recuerdos…..queremos recordarlos, otros queremos olvidarlos.
Se mueve contra nuestra conciencia. Quiero recordar, pero no puedo. Quiero olvidar, pero no puedo.
Esta "traición a la conciencia" puede ser el tema de Jesus.

 

思い出せないということが「意識の裏切り」であるように、思い出してしまう(忘れられない)というのも、「意識の裏切り」である。
「意識の裏切り」によって、私たちの時間はとても複雑になる。その複雑さそのものが、Jesus Coyto Pablo と、私は感じる。
「愛と邪悪の手紙(Cartas de amor y maldad )」という最近のシリーズを見ながら、そう思った。そこには男女の写真と、様々な印刷物がコラージュされ、色が塗り重ねられている。
楽しい思い出につながっているのか、いやな思い出につながっているのか、わからない。記憶のなかでは憎悪の区別は消えてしまう。いやなことがなつかしく思い出され、楽しいことが哀しみを呼び覚ますこともある。

Así como no poder recordar es una "traición a la conciencia", recordar (no poder olvidar) es también una "traición a la conciencia".
Nuestro tiempo es muy complejo por la traición a la conciencia. Esa complejidad es de la de Jesus.
Pienso en esto al ver su reciente serie de "Cartas de amor y maldad". En este seria tiene fotografías de hombres y mujeres y diversos materiales impresos.
No sé si están relacionados con recuerdos agradables o desagradables. En los recuerdos, la distinción desaparece entre odir y amor. Las cosas malas se recuerdan con cariño, y las agradables pueden evocar tristeza.
            
               


  

Jesus の両親、あるいは家系というか、歴史を題材にした絵がある。彼はいつも時間を意識している、と私は確信する。
母親は美人だ。Jesus は父親を「guapo 、美男子」と何度も強調した。彼も美男子である。アトリエには2枚、彼の写真がある。その一枚は黒いフードを被っている。私は僧を連想した。「薔薇の名前」のショーン・コネリーを思い出した。
ベラスケスを模写した絵もあった。その時、何がきっかけだったかはっきりしないが、ゴヤのことを話した。私がゴヤの晩年の、黒い絵のシリーズが好きというと、Jesus が黒について熱心に語りはじめた。
「色彩は光が物体にぶつかり反射したもの。ほんとうの黒は存在しない。黒にはたどりつけない。果てしない」
世界にはたどり着けないところがある。
だからこそたどり着きたいという欲望が誘い出され、人は生きるのだろう。
あるいは、たどりつけないものが、「黒い闇/黒い魔力」が噴き出してきて、世界をつつんでいるかもしれない。
魔法の森を描いた作品の黒は、確かにゴヤの黒に通じると思う。
私はプラド美術館で、ゴヤを見ながら、Jesus を思い出していた。

Los padres de Jesús, o más bien su historia familiar, es el tema de algunos de sus cuadros. Estoy convencido de que él está siempre consciente del tiempo.
Su madre era Hermosa. Y Jesus destacó repetidamente a su padre como guapo. También Jesus es hermoso. Hay dos fotografías suyas en su estudio. En una de ellas se lleva una capucha negra. Como un monje. Me recordó a Sean Connery en “El nombre de la rosa”.
También había un cuadro copiando a Velázquez. En ese momento, me habló de Goya, aunque no estoy seguro de qué fue lo que lo motivó. Cuando le dije que me gustaba la serie de negras de Goya, Jesus empezó a hablar del negro con entusiasmo.

“Los colores son los reflejos de la luz que incide sobre un objeto. Pore so el verdadero negro no existe en el mundo. No se puede llegar al negro.”
Yo pienso que hay partes del mundo a las que no se puede llegar. Por eso, Jesus desea alcanzarla al negro, y presentar negro real.

La obra que representa el bosque mágico corresponde ciertamente a la negrura de la obra de Goya.
Me acordé de Jesus cuando miraba a Goya en el Museo del Prado.

   

 
割れた鏡に映ったJesus と私。
Shuso という音はJesus と同じ意味になるらしい。
この「記念写真」は、まるでJesus の作品である。
亀裂と重なり。何かが正確に見えるわけではない。しかし、そこに映った顔がJesus と私であることがわかる。
私たちにはいつでもわかることとわからないことが混在する世界を生きている。
芸術は、その「わからないこと」のなかへ分け入り、「わかる」の手がかりをあたえてくれるものだろう。
Luciano は、これを「検索する」という動詞で表現していた。芸術は、何者かを検索する。しかし、その検索はグーグルの検索ではない。自分の肉体とこころのなかへ分け入って、自分で見つけ出すしかない。そこには答えはない。答えを求めようとする動きだけがある。


Jesús y yo nos reflejamos en un espejo roto.
Se dice que el sonido "Shuso" significa lo mismo que "Jesús".
Esta "fotografía conmemorativa" es como la obra de Jesús.
Grietas y solapamientos. No puedo ver claramente. Pero sé que los rostros son de Jesus y mís.
Vivimos en un mundo en el que siempre hay una mezcla de lo conocible y lo incognoscible.
El arte puede ayudarnos a penetrar en lo "incognoscible" y darnos pistas sobre lo "cognoscible".
Luciano lo expresó con el verbo "buscar". (Buscar…no es corecto, pero lo entiendo que Luciano quiere decir “buscar”.) El arte busca a alguien. Pero la búsqueda no es una búsqueda en Google. Tienes que entrar en mi cuerpo y en mi mente y descubrirlo por ti mismo. Ahí no hay respuestas. Sólo hay un movimiento para buscar respuestas.

 

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