デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(3)(七月堂、2022年05月05日発行)
デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』を読み進むと、だんだん暗い気持ちになる。それが、なかなか気持ちがいい。
「自由とは」の途中から。
わたし
は、責任をもってじしんの身体のケアをする男だ、身体と切り離し
えぬみだしなみもきちんと整える男だ。着るものにも意を用いるし、
容貌にも、わたしは鏡のなかのわが容貌をうつくしいとおもうもの
だが、それもきっちりと手入れをする。でも、知りたいのは、歯を
磨くことからも自由になり、顔や首のあたりも洗わずにいたり、足
指のあいだも洗わずにいたりするとして、それはどんな感じのもの
なのだろうということだ。知りたいのは、排便も怠り、健康維持の
ための食物も遠ざけ、下着は替えぬままにいたりするとして、それ
はどんな感じのものなのか、またぐらから、わきのしたから、にお
いが立ちのぼるままにするとして、それはどんな感じのものなのか、
ということだ。
こんなことは知りたくないが、知りたいと言われてみると、知りたい気持ちになってくる。どんな感じなのだろうか。たぶん、デイヴィッド・イグナトーは肉体的に強靱なのだと思う。私は肉体的に脆弱なので、たぶん、彼が書いているようなことを「知りたい」という気持ちにはならなかった。肉体が強靱なら、つまり、こういうことをしてもすぎに元の肉体にもどれるという自信があるなら、こういうことをしてみたいと思う。これは、強靱な肉体を生きた記憶が言わせることばなのだろう。その強靱さを感じ、何か、楽しい気持ちになるのだ。
詩は、こんなふうに終わる。
バスルームに寝転んでゆかにぴた
りと背をつけてみる、生命がわたしの身体からしみでてゆくのがわ
かる、先月からなにも食べていないわたしだ、死んでゆくのだ。わ
たしは自由だ。
自分の肉体(デイヴィッド・イグナトーは「身体」と書く)のケアをしなくてもすむようになる。それを「自由」と呼んでいる。
こんなふうに死んでみたい、と思えてくるから不思議だ。もう、暗い気持ちはない。 「空」という詩。
わたくしは父と母のそばに埋められたいです
その声が聞こえるように よしよし かわいい息子よ
もうすこしなんとかできたかもしれないね
でも おまえのことは愛しているよ わたしたちはね
さ 横になりなさい ここに あおむけになって 空をみなさい
デイヴィッド・イグナトーが父、母とどんな関係にあったのか知らない。たぶん、十分にいい関係ではなかっただろうと思う。しかし、そのことが逆に父、母を思い出すきっかけになっている。いろんなことがあったが、「父のことも、母のことも愛しているよ、わたしはね」という気持ちがあるから「おまえのことは愛しているよ わたしたちはね」という声が聞こえてくる。
デイヴィッド・イグナトーは、なんにでも「なる」。なってしまうのだ。すべてと一体になる。ことばを通して。
横になり、仰向けになって空を見るとき、デイヴィッド・イグナトーは、きっと空になっている。地中に埋められているが、空になっている。
彼は、自分自身の死を救っている。だれも自分の死を救ってくれないと知っているから、自分で自分の死を救うようにして生きたのかもしれない。
あ、書きすぎてしまった。消せばいいのかもしれないが、消せば消したで、妙なものが心に残る。だから、書いて、書きすぎたと書いて、消せばよかったと書くしかない。