詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Vicente Barbera Albalat y Ángel García

2022-07-24 15:48:41 | tu no sabes nada

Vicente Barbera Albalat y Ángel García

詩人にも会った。Vicente Barbera Albalat と Ángel García。
Vicenteはとても話しやすい詩人だ。私は、ろくにスペイン語が話せないのだが、会話していて困ることがない。スペイン語が突然上達した気持ちになる。
なぜだろう。
Vicenteは言う。「それは、私が君の話を聞いているからだ」
この答えに、私は絶句した。そうか、ことばは聞いてくれるひとがいると、伝わった気持ちになるのか。伝わるのか。
  
V í a dos poetas también. Vicente Barbera Albalat y Ángel García.
Vicente es un poeta con el que es muy fácil hablar. No hablo bien el español, pero no tengo problemas para conversar con él. Siento que mi español ha mejorado de repente. No sé por qué.
Vicente dijo :.”Es que te estoy escuchando”.
Esta respuesta me deja sin palabras. Me dije a mí mismo: ya veo, cuando alguien me escucha, siento que mis palabras le han sido transmitidas. 

このことと関係する詩が、Vicenteの詩集の中にある。
"Yo fui el eslabón perdido de la historia"
Francisco Cejudoの書いた一行を利用し、そのことばの間にVicenteのことばをさしはさんで行く。そして、新しい一篇の詩にする。
Franciscoの声に耳を傾け、それにVicenteの声を重ねる。Vicenteの生き方、思想がそのまま反映されているのだ。
このことから、私はまた「俳句」を連想した。
Vicenteは俳句に興味がある、と言った。俳句をどう定義するかはむずかしいが、私は「一期一会」が俳句の精神だと思っている。
何かに、あるいは誰かに出会う。そのとき、自分がどうなるかを気にせずに、自己を解放し、他者(対象)と一体になる。その瞬間、いままで存在しなかった「世界」があらわれる。
Vicenteは、なんのこだわりもなく、私を受け入れてくれている。その許容力のなかで、私は私ではない人間になる。私のスペイン語は、錯覚かもしれないが、Vicenteのなかで生まれ変わったのだろう。
そして、このことは"Yo fui el eslabón perdido de la historia"についても言えるだろう。
Franciscoのことばは、Vicenteのことばと出会い、生まれ変わり、FranciscoとVicenteのことばが溶け合った、新しい世界があらわれる。

Hay un poema relacionado con esto en la colección de poemas de Vicente.
"Yo fui el eslabón perdido de la historia".
Vicente toma una línea escrita por Francisco Cejudo e inserta sus palabras entre las palabras de Francisco. Entonces nace un nuevo poema.
El escucho la voz de Francisco y luego le añada sus voces propias, Estas palabras son reflejando la forma de vida y de pensamiento de Vicente.
Por esto, me hizo pensar en el "haiku".
Vicente dijo que estaba interesado en el haiku. Es difícil definir el haiku, pero creo que el espíritu del haiku es el "一期一会ichigo-ichie" (el 

 


encuentro de una vez en la vida).
Una persona se encuentra con algo o alguien. En ese momento, sin preocuparse por lo que le ocurrirá a si mismo, se libera y se hace uno con el otro (el sujeto). Así de repente, aparece un "mundo" que antes no existía.
Vicente me acepta sin ningún tipo de compromiso. En esa aceptación, se convierta en alguien que no es. Mi español puede renacer por la conversacion con Vicente. Hacemos, Vicente y yo, 一期一会.
Puedo decir o quiero decir que lo mismo ocurre con "Yo fui el eslabón perdido de la historia".
Las palabras de Francisco se encuentran con las de Vicente y renacen, revelando un nuevo mundo en el que las palabras de Francisco y de Vicente se mezclan.

私は、facebookに、こんなメモを残していた。
一行のことばから世界を広げてゆく。
最初から、そのことばがあったかのように。
実際、そうだったのかもしれない。
ヴィセンテのことばを削り込んだらFrancisco のことばになったのかもかもしれない。
それとも。
これは、出会いながら別れ、別れながら出会うことば(人間)存在の美しい形を象徴しているのかもしれない。
二人は独立して存在し、出会いのなかで、一人ではつかむことのできない世界を手にする。
それは一瞬であるけれど、記憶の中では(ことばの記録としては) 永遠である。
こういう出会いをしたいなあ。
こういう出会いをしたのかも。
こうやって、ヴィセンテの詩について書いているのだから。

Había dejado esta nota en Facebook.
Vicente expande el mundo a partir de una sola línea de palabras.
Como si la palabra hubiera estado ahí desde el principio.
De hecho, es posible que ese sea el caso.
Tal vez se convirtió en las palabras de Francisco cuando las raspó de las palabras de Vicente.
O quizás.
Este simbolice una hermosa forma de existencia de la palabra (o humana), ellos se encuentran mientras se despieden, o se despieden mientras se encuentran.
Dos personas existen de forma independiente y, en el encuentro, se apoderan de un mundo que no pueden abarcar solas.
Es un momento, pero en la memoria (como registro de palabras) es eterno.
Ojalá pudiera tener este tipo de encuentros.
Tal vez yo lo pude, porque yo escribe así…….


        
Vicenteとは、日を替えて2回会った。話しやすかったので、もう一度会いたくなって、声をかけてみたのだ。facebookに書き残した感想も伝えたかった。
そのとき詩のなかの「cántaro」がわかるか、と聞かれた。「水差し(ピッチャー)」ではなかったかな、と思ったが、どうも違う。「もっと大きい。把手がついている」という。「水瓶」のようなものかもしれない。
あ、なるほど。それなら「oscura」とも「sueño」ともぴったり合う。
でも、どうして私がcántaroにつまずいていることがわかったのだろう。
そんなところにも、Vicenteの聞き上手というか、話をよく聞くという姿勢を実感した。
  
Me encontré con Vicente dos veces en días diferentes. La conversación era muy divertido con él, y quería contarle lo que había escrito en facebook.
Entonces me preguntó si reconocía la palabra "cántaro" en el poema. Pensaba que era "jarra", pero no lo era. Me dijo que : “Es más grande. Tiene un asa”. Podría ser algo como un "tirro de agua".
Ah, ya lo veo. Cntaro cae bien tanto “oscura” como “sueño”.
¿Pero cómo sabía que había tropezado con un cántaro?
Me di cuenta de lo bien que me escuchaba Vicente, o mejor dicho.

 


  

闘病中で外出が難しいというÁngel Garcia.
お見舞いをかねて自宅を訪ねた。
Ángelは、こんな詩を書いている。もらった詩集の中にある。

Ángel García, que lucha contra una enfermedad que le dificulta salir de casa.
La visité en su casa para presentarle mis respetos.
Ángel ha escrito este poema. Está en un libro de poemas que recibí.

 

 

Llega la vida

LLega la vida
coronada de la muerte
impertinente.
Frente al vacío infinito
te deja como respuesta
el silencio.
Por mucho que te enpeñes
y le preguntes
te deja abandonado
frente a la otra orilla
sin posibilidad de regreso

死を直視している。生と死は硬く結びついている。その「一期一会」を人間は生きている。生と死が切り離せないものならば、それとどうやって出会うか。ことばのなかで、どう出会わせるか。
むずかしい。答えはない。
ただ、一日でも長く生きていてほしいと願う。

El mira directamente a la muerte. La vida y la muerte están rígidamente ligadas. Los humanos viven ese "único encuentro". Si la vida y la muerte son inseparables, ¿cómo las encontramos? ¿Cómo los satisfacemos con palabras?
Es difícil. No hay respuesta.
Sólo espero que podamos vivir el mayor tiempo posible.

 

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新井啓子『さざえ尻まで』

2022-07-24 09:50:43 | 詩集

新井啓子『さざえ尻まで』(思潮社、2022年04月29日発行)

 新井啓子『さざえ尻まで』のなかに「旅の話」がある。以前、書いたかもしれないが、この作品がいちばんおもしろい。親戚で旅したときのことを、親戚が集まったときに思い出す。具体的なことは、前半に少し紹介される。それを受けての、後半部分。

集まるたびにみなが思い出話をする
何度もなんども同じ話が語られる
語る人数は減っていくが
語られるひとは変わらない

いなくなっても必ず語られるひとがいる
本当にあれだよね
しょうもなくあれさ などと
よくも わるくも
繰り返し語られる

何度もなんども語られるので
いったきり 帰れそうもない

 「思い出話」は「旅の話」とは限らないだろう。
 「語る人数は減っていくが/語られるひとは変わらない」はさりげなく、ひとが死んでいくことを語っている。葬式には、ひとが(親戚が)集まってくる。そうすると、葬儀の対象の故人の思い出話が出るのはあたりまえだが、ずーっと前に死んでしまったひとの話も出る。「いなくなっても必ず語られるひとがいる」。
 「何度もなんども語られるので/いったきり 帰れそうもない」と新井は書くが、それは、結局、ひとというのは「いったきり」になるということかもしれない。「いったきり」になり、語るひとではなく、語られるひとになる。それが人間なのだろう。それが人間の「旅」なのだろう、と私は静かに納得する。
 「影のひと」には、「あの日」、海でおぼれそうになったことが描かれている。

誰も 気づかなかった
(気づかれなかった

 という行がある。
 でもね、きっと気づいている。そして、それは「語られる」日がくる。
 この「影のひと」の最終連。

煮付けにするとおいしいイトヨリが買われていく
石川魚屋の生け簀に傘の群れ
三叉路のウィンドウの前に母がいた
食材を得たゆるく結ばれた口元
あそこから あの日とおなじ
おかえり
が とんでくる

 もう一度「あの日」が出てくる。
 「三叉路のウィンドウの前に母がいた」は生きている母ではなく、死んでしまった母だろう。(生きているのだったら、ごめんなさい。)「あの日」というのは「遠い日」だが、思い出すと、「いま、ここにある、きょう」になる。同じように、死んでしまった「あのひと」も、思い出す瞬間に「いま、ここ」に「生きている」。
 何かを思い出すことの美しさが、正直が、こんな形で語られる。
 「クラウドボウ」という詩。

折れ曲がったきつい坂は
ちちははの来た径
折れ曲がった蔓草の茂る坂は
わたしの帰る径

 どこへ「帰る」のか。「正直」に帰る。「自分」に帰る。それは、「あの日」を思い出すことである。「あの日」の「あのひと」を思い出すことである。自分を捨てて、「あのひと」になることである。「本当にあれだよね/しょうもなくあれさ」と「繰り返す」ことである。「繰り返される」もののなかに、「正直」がある。それは、たとえば「煮付けにするとおいしいイトヨリ」。母の言ったことばが、いま、新井の人感として生きていて、それが「おかえり」を誘う。「正直」と「正直」のつながり。
 この詩集は、それをしっかりとつかんでいる。

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