詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Calo Carratalá

2022-07-15 22:16:04 | tu no sabes nada

Calo Carrataláの展覧会。ここには、私がブログで書いた感想が、そのまま展示されている。日本語とスペイン語で。(私のスペイン語は、もちろん間違いだらけなのだが、それをそのままつかってくれている。)

写真では見えにくいだろうから、ブログに書いたものをそのまま転写しておく。

*


ほぼ同じ構図の2枚の「ジャングル」。私は茶色いジャングルの方に、引きつけられる。こういう絵を見たことがないからだ。空気が乾いていて、光が軽い。しかし、それは印象派の描く光ではない。

そう書いて、すぐに、いや緑のジャングルの方がいいなあ、と思う。

重たく湿った空気のなかで、光は動くというよりも、緑の上にとどまっている。これも、印象派の描く光ではない。

鏡のように、遠いところにある光を受け止めて、動かずにいる。

 

この光の中にいると、光とは別なものも見えてくる。水だ。

 

どちらの絵も、木々は具体的には描かれない。

色の塊。ジャングルとは、塊のことなのかもしれない。

木々の一本一本は、たがいに深く絡み合っている。

決して切り離されない。繋いでいるのは「水分」である。

水は、木々の内部を流れる。水は、木の外部では湿度として存在する。

水は、いたるところにある。

湖面の水がそれを強調している。

水平に広がる水とは別に、地上には垂直に立ち上がる水があるように感じられる。

湖面の逆さまの木々を、垂直に立つ水面が木々を地上に映し出す。

地上こそが「鏡」なのだ。

そうやって、水平と垂直が融合する。

融合したものだけが獲得した静けさと、強さがある。

 

Dos "selvas" de composición casi idéntica.

Me atrae más la selva marrón.Esto se debe a que nunca había visto un cuadro como éste.El aire es seco y la luz es ligera.Pero no es la luz retratada por los impresionistas.

Escribo eso e inmediatamente pienso, no, prefiero tener una selva verde.

En el aire pesado y húmedo, la luz permanece en el verde en lugar de moverse.

Esta tampoco es la luz que retratan los impresionistas.

Como un espejo, capta la luz en la distancia y permanece inmóvil.

 

Cuando estás en esta luz, también ves algo más que la luz.El agua.

 

En ninguno de los dos cuadros se representan los árboles de forma concreta.

Una masa de colores. Tal vez la selva sea una masa.

Los árboles individuales están profundamente entrelazados entre sí.

Nunca se separan. Lo que los mantiene unidos es el "agua".

El agua fluye por el interior de los árboles. El agua existe fuera de los árboles en forma de humedad.

El agua está en todas partes.

El agua en la superficie del lago lo acentúa.

Aparte del agua que se extiende horizontalmente, parece que hay agua que se mantiene verticalmente en el suelo.

Los árboles están al revés en la superficie del lago, y el agua en posición vertical refleja los árboles en el suelo.

El suelo es el "espejo".

De este modo, lo horizontal y lo vertical se fusionan.

Hay una quietud y una fuerza que sólo la fusión ha logrado.

 

 

私がCaloの作品をはじめてみたのは、別の絵である。

この絵を見た瞬間、長谷川等伯を思い出した。

Calo Carrataláは知らないという。

何が長谷川等伯を思い出させるのか。

遠近感の処理の仕方である。

遠近感は、「空気」そのもののなかにある。

木に空気が触れる。水に空気が触れる。そして、空に空気が触れる。

そのとき空気の密度が変わる。

凝縮と拡散がある。

その運動が遠近感になっている。

それにしても、この中央の果てしない広がりの輝きは何だろう。

沈黙が輝いている。

それは左右の沈黙をより凝縮させるのか、それとも隠れている沈黙に対して、私は待っている、と誘いかけているのか。

写真だけではわからない。

この絵の前に立って、この遠近感と向き合わなければならない。

絵から展示室にあふれだすこの空気、この遠近感は、私をその世界へ連れて行ってくれるだろ。

展示室そのものを、この絵の「現場」へと連れて行ってくれるだろう。

 

そのとき、私は、この絵が1枚の絵なのか、それとも2枚の絵が向き合っているのかもわかるだろう。

孤独な2枚の絵が、きっと私のなかで1枚の絵になる。

あるいは1枚の絵だったものが2枚にわかれて、沈黙のことばを交わし始める。

そのとき、きっと私の中の沈黙もことばを発する。

その声は、この絵の中の、中央の沈黙を超えて、どこまでも広がっていくだろう。

 

En el momento en que veo esta imagen, recordo a Hasegawa Tohaku.

Pero Calo Carratalá me dice que no le sabe nada.

¿Por qué me recuerdo a Hasegawa Tohaku?

Así es como se maneja la perspectiva.

La perspectiva está en el "aire" mismo.

El aire toca el árbol. El aire toca el agua. Y el aire toca el cielo.

En ese momento, la densidad del aire cambia.

Hay condensación y difusión.

El movimiento da una sensación de perspectiva.

Pero, ¡qué brillante central! ¡que extensión infinita!

El gran silencio brilla.

¿Condensa el silencio de izquierda y derecha, o me invita a esperar el silencio oculto?

No se puede comprender solo por las fotos.

Tiengo que llevarme frente a esta pintura y enfrentarme a esta perspectiva.

Este aire que desborda de los cuadros hacia la sala de exposiciones, esta perspectiva, me llevará al mundo.

La propia sala de exposiciones se convertirá en el "lugar" de esta pintura..

 

En ese momento, sabré si esta imagen es una, o dos imágenes enfrentadas.

Dos imágenes solitarias seguramente se convertirán en una sola imagen en mí.

O lo que era una imagen se divide en dos y comienza a intercambiar palabras en silencio.

En ese momento, el silencio en mí seguramente hablará.

Las tres voces se extenderán más allá del silencio central de esta pintura.

 

 

Calo Carratalá の展覧会で、とても信じられないことが起きた。

難民と思われる人々が小さな舟に乗っている。

この作品はパーティションの壁に直接描かれているので、展覧会が終われば消されてしまう。儚い運命の絵である。

それを見ていたとき、窓から入ってきた光が床に反射し、難民のひとりをスポットライトのように強烈に浮かび上がらせたのだ。

絵自体に塗り方のムラ(?)があるので、光があたっていないときの絵を知らない人は、塗り方の違いと思うかもしれない。だが、それは作者の意図を超えた偶然の一瞬なのだ。

夕方の光が動き、スポットライトが立っているひとのところに移った時は、また印象が違う。

座っている女に光が当たったとき、難民ボートの印象が鮮明になる。

ボートは描かれた絵ではなく、描かれたボートは現実の世界にむかって動き出したのだ。

そういうことがあったので、この絵は忘れられないものになった。

消されて存在しなくなるけれど、私の記憶からは絶対に消えないはずだ。

 

En la exposición de Calo Carratalá ocurrió algo muy increíble.

Las personas, presumiblemente refugiados, están en un pequeño bote.

La obra está pintada directamente sobre el tabique y se borrará una vez terminada la exposición. Es un cuadro con un destino fugaz.

Cuando lo miraba, la luz que entraba por la ventana se reflejaba en el suelo y daba vida a uno de los refugiados con la misma intensidad que un foco.

El cuadro en sí está pintado de forma desigual (?). Si no conoce el cuadro cuando no está iluminado, podría pensar que se trata de una diferencia en la forma de pintar. Sin embargo, se trata de un momento de coincidencia más allá de la intención del artista.

Cuando la luz del atardecer se desplaza y el foco se desplaza hacia la persona que está de pie, la impresión es diferente.

Cuando la luz ilumina a la mujer sentada, la impresión del barco de refugiados se hace más clara.

El barco no es un cuadro pintado; el barco pintado se ha desplazado hacia el mundo real.

Por ello, el cuadro se convirtió en algo inolvidable.

Se borrará y dejará de existir, pero nunca desaparecerá de mi memoria.

 

後日、アトリエを訪ねた。巨大な倉庫のようなアトリエである。
展覧会場には、難民の絵と同じように、直接パーティションに描かれた絵が合計三枚あった。
Caloの絵はたいていが大きいが、会場で直接描いているところからわかるように、最初から「空間」を意識している。空間の大きさと絵の大きさが意識されている。だからこそ、おおきな「空間」としてのアトリエが必要なのだ。
もちろん小さな絵もあるが、やはり大きな絵の方がおもしろいと私は思った。
アトリエでは昼食会があり、コレクターや大学教授らが集まってきた。コレクターのひとりはCaloの幼なじみだという。みんなが、学校が終わり、さあ、サッカーをやろうと言っているとき、Caloだけは、私は絵を描くといって単独行動をしていた、というエピソードを教えてくれた。

他のひととは違う別の時空間をを生きていたということだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)

2022-07-15 10:48:28 | 詩集

デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(七月堂、2022年05月05日発行)

 デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)は、読み始めてすぐにひきつけられる詩である。
 「病院の受付係」。

その人の名前と住所を
その人の年齢と生地を
その人自身の口から聞き取って
以来、もうその人たちは何人死んでいったのだったか?
新生児の登録もした 出産の番号札をつけて
受付係だから

 三行目の「その人自身の口から聞き取って」が、一行目と二行目の事務的手続きを強く揺さぶる。「口」という肉体の存在、聞き取るときの、書かれてはいない「耳」と「手」の動き。そこに他人の肉体と、詩人の肉体の交渉がある。「その人自身」という個へのこだわりが、必然として個の消失、死を暗示させる。どきりとさせられる。だから、その後につづく「死ぬ」という動詞が、なまなましく、また避けることのできない「必然」として迫ってくる。
 ああ、この人は、生きながら「死ぬ」ということを考え続けたのだ、考えることを迫られたのだと、一瞬息が止まる思いがする。「以来」ということばで、詩人は、その衝撃を必死に緩和しようとしている。
 さらに、逆のことも書いて、自分自身を救い出そうとしている。死ぬものがあれば、生まれるものもある。だが、その生まれた人の「名前と住所」「年齢と生地(これは聞かなくてもわかる)」は「その人自身の口から聞き取る」わけではないのだ。
 だからこそ、三行目は、絶対に書かなければならなかったキーセンテンス(キーとなる一行)なのだ。そして、この絶対的な「ことば」、「その人自身の口」から発せられるものこそが、詩なのである。それがたとえ「名前、住所、年齢、生地」という、一般に詩とは感じられないものであっても、それが詩なのだ。一回限り、そこで存在した「ことば」なのだ。
 そういうことを意識しながら、詩は、二連目に入る。

ここで詩を書くのだ 死と生の数々に囲まれて
受付係として
それで深くなったか? ウソをいわなくなったか? ぼくときみは?

 「ここ」ということばが重い。「名前、住所、年齢、生地」が固有名詞なら、「ここ」も固有名詞なのだ。そして「受付係」さえも固有名詞だ。詩は、固有名詞のなかにある。個(固)のなかにのみ存在し、生きている。
 この固有名詞、個の存在と向き合い続けるのは、とてもむずかしい。「普通名詞(一般名詞)」になって「流通」してしまう。「ほんとう」が「ウソ」に変わってしまう。固有名詞は、その深さを測る基準がない。どこまでも深い。そして絶対的真実である。ウソを受け入れない。そこへ、たどりついたか?
 詩人は自問している。
 そして、この詩は問いかけてくる。この詩に対して、私は「私自身の口」から「私自身のことば」で、「私の名前、住所、年齢、生地(アイデンティティー)」を語ることができるかと。
 私は、感想を書くことで私自身を語り得ただろうか。私の感想のなかにはまじっていないか、つまり、私はウソをついていないか。
 詩を読むのではない。詩の方が私のことばを読む。その真剣な視線の前で、私はどれだけ自分自身に対して正直になれるか。新生児として生まれ変われることができるか。それが、これから詩集を読んでいくとき、私に求められることだ。

 「だからまたぐ」という詩がある。

わたしは
石ころ一個とのつながりで
わたしじしんを了解する

 この「石ころ」とは「固有名詞」としての「詩」である。そこにある「固有名詞としての石ころ(詩)」と「わたしじしん」をどうつなぎ、そこで何を語ることができるか。他人のことばではなく、自分のことばで。
 詩人はつづけている。

肉と骨であるもの
わたしは石ころに向かってひれ伏すべきだろうか?

 そう、ひれ伏すべきである。固有名詞の存在の前で、「わたし」と「人間」とか「市民」とかという「普通名詞」に逃げてはいけない。「固有名詞」にならないといけない。全体的存在としての「石ころ(固有名詞)」の前で、詩の前で、できることは、「ひれ伏すこと」、無力であることを自覚すること、無になること……。

これは聞こえてきた声 わたしの声
わたしは正面から石ころに対峙したい
プライドをもって
しかしわたしはこわれうるものである
わたしはあらそいをこのまぬものである
だから
石ころをまたいで過ぎる

 「しかしわたしはこわれうるものである」の「こわれる」をどう読むべきなのか。私は悩むが、「こわれる」を可能性と読む。固有名詞(詩)の前で、私は私であってはいけない。私を壊して、私でなくならないといけない。生まれ変わらないといけない。
 だが、こういうことは、頭で言うのは簡単である。ことばは、いつでも、自分の都合のいいように頭の中で動いてしまう。ウソを、かっこいいことを書いてしまう。
 詩人は、ここで踏みとどまっている。
 そこまでは、できない。
 だから、石ころ(詩)という全体的存在を認めながら、いまは、そっとそれを「またいで過ぎる」。この「またぐ」という動詞に、何とも言えない正直を感じる。これは「保留」のひとつの態度である。

 「夜の読書」にも、同じものを感じた。

なにを学んだから
わたしはいずれ死ぬんだ
という単純な事実から離れていられるのか?
本から学んだ考えは、わたしを素通りしてゆく
本を閉じる、わたしは閉じ込められる、闇につつまれる、急遽、
本をひらく
本のひかりがわたしの顔を照らすのを待つ

 「自分自身のことば」をみつけなければならない。しかし、ことばはいつでも「本」(他人)からやってくる。やってくるものは、たいてい、通りすぎても行く。通り越して行く。それは、しかし、通り越すにまかせるしかない。それは「自分自身のことば」ではないからだ。
 本のひかり、本のことばが、「わたし」を「照らす」。照らされたそのひかりのなかに、私自身のことばを見つけなければならない。「照らす」力を借りて、「私自身」を探す、ということだろう。ここにも「保留」がある。
 詩は(固有名詞は)、私を「固有名詞」に引き戻してくれる「ひかり」である。

 この詩集の前で、私はどれだけ正直になれるか。それが問われている。急いではいけない。ことばがウソをつきそうになったら、その直前で立ち止まり、「保留」することが必要なのだ。だから、きょうは、ここまでしか書かない。


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