詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎「車夫のことばで書け!」

2022-07-20 14:59:04 | 詩(雑誌・同人誌)

石毛拓郎「車夫のことばで書け!」(「潮流詩派」270、2022年07月10日発行)

 石毛拓郎「車夫のことばで書け!」は魯迅の「小さな出来事」に関する感想(批評)である。私は、魯迅の作品の中で、この作品がいちばん好きである。その好きな作品を石毛が取り上げて書いている、と書いただけで、私は、石毛の文章への感想を書いた気持ちになってしまう。あ、石毛も、この作品が忘れられないのだ、と思うと、それだけで石毛を信頼できると思うのである。

 魯迅は、ある日、人力車に乗る。急いでいる。街角で、老婆と人力車がぶつかる。老婆はケガをしているようにはみえない。老婆をほっぽりだして、そのまま走ってくれ、と思う。ところが車夫は老婆を助け起こし、なんと派出所へ「事故届け(?)」に行く。そのときのことを書いている。
 私は、この作品を読み、はっとした。
 私は魯迅のような金持ちではない。貧乏農家の生まれである。特権意識というものはない、と思っていた。しかし、この「小さな出来事」のようなことはなくても、ときどき「わがまま」になる。
 たとえばバスのなか。年取った老人が、なかなか料金を払えずに、手間取っている。「乗る前にちゃんと準備しておけばいいのに……。映画がはじまってしまう」というようなことを思ってしまう。どこかで「傲慢」が顔を出してしまう。そんなに映画の開始時間が大事なら、私がもっと早く家を出発すれさえすればいいだけなのに、である。
 でも、それができない。
 そして、いらいらしてしまう。
 魯迅は、この出来事の最後の方で、警官にお金を渡してしまう。これは、たとえて言えば、なかなか料金が払えない老人に代わって、硬貨を料金箱に入れてしまうような行為に似ているかもしれない。私はそこまではしたことがないが、ときどき「お金は私が払うから、早く下りてください」という気持ちになることがある。いらいらしていると、とんでもないことを考えてしまうのである。
 これを、どこまで正直に書けるか。

 私が魯迅から学んだことのなかで、いちばん大事なのは、この「正直」である。
 目の前で何かが起きる。そのとき、自分のなかにあるいろいろな要素(?)、たとえば年齢だとか、年収だとか、身分だとか、欲望とか、その日の計画とか、そういうものを完全に捨てて、ひとりの人間として、向き合えるか。いや、年齢とかあれこれを気にしてもいいのだけれど、気にしながら、それを捨てて、ひとりの人間として、出来事に向き合えるか。「正直」になれるか。
 「正直」というのは、素裸になれるか、ということでもある。
 そして、このときの「素裸」というのは、ちょっと、むずかしいが、その人の、そこにいる「立場」に忠実であるかどうかということなのだ。
 この作品のなかで、車夫は、車夫であることを守り通す。今で言えば、タクシードライバーになるのだと思うが、その仕事をしている限り、その仕事を通してまもらなければならないものがある。事故を起こしたら、被害者を最優先にする。事故を起こしたことを、きちんと警察に届ける。それが、車夫の場合の「素裸」ということが。職業と自己を正確に結びつけ、その仕事によって自己を存在させる。

 ちょっと脱線して。

 日本国憲法に「公共の福祉」ということばがある。車夫のとった行動は、この「公共の福祉」に合致するものである。それは魯迅の「利益」には合致しない。魯迅がどんなにえらい人間であろうが、「魯迅個人の利益」よりも「公共の福祉」を優先する。事故が起き、ケガをしているかもしれない人がいれば、まずその人を助ける。事故がどのようにして起きたか報告し、事故が起きないようにする。車夫がそこまで考えていたかどうかわからないが、私は、そう考えるのである。
 ここから自民党が2012年の改憲草案で「公共の福祉」ということばを削除し、「公の利益」ということばに置き換えたことも思い出したりもする。自民党は「利益」を考えるが、「福祉」を考えない。

 「正直」に話をもどすと。
 魯迅は、このとき、「魯迅の正直」が「車夫の正直」に完全に負けた、ということを自覚したのだ。「正直さ」において、魯迅は車夫よりも劣る、と自覚したのだ。
 世の中には「正直」なひとがたくさんいる。そのひとたちは「正直」ゆえに、ときとして貧しい生活をしているかもしれないが、「正直」の豊かさは魯迅よりも上回っている。
 この「豊かな正直」に向き合うために、何をしなければならないか。その「豊かな正直」が「豊かな正直」でありつづけるために、魯迅自身はどんな仕事ができるのか。魯迅は、それを考え続けた人間だと思う。
 「正直」は、ときには、とても不思議な形をしてあらわれるときがある。「正直」がきづついてあらわれることがある。「狂人日記」や「阿Q正伝」は、そういう作品だと思う。ひとは「正直」しか生きられないのである。

 これでは石毛の書いた批評(感想)への感想になっていないなあ、とも思う。思うけれど、こういう感想しか私には書けない。
 私は魯迅の「小さな出来事」が大好きである。それを読んだとき、私が何を思ったか、それからその思いをどんなふうにいまとつなげて持ち続けているか、ということを書くことが石毛の書いた文章への感想になると思う。
 石毛の文章が、魯迅の執筆活動全体と把握しながら「小さな出来事」をとらえ直しているとか、「小さな出来事」を通して魯迅の精神の変化を克明に浮き彫りにしているとか書いてみたって、そこには「うそ」が入ってしまう。私は魯迅は大好きだが、大好きだからといってその作品を全体を把握しているわけではない。何かそういうことを書こうとすれば、そこに「他人のことば(既存の魯迅への評価)」というものがまぎれこんでしまう。それは私の考えている「正直」とはかなり違う。
 だから、最初に書いた感想に戻るしかないのだ。
 私も、石毛同様に(ほんとうは「同様」ではないかもしれないが)、この作品が大好き。この作品が好き、この作品について何か書いているというだけで、私は石毛を信頼する。石毛と私の考えていることは、「同様」どころか、完全に違っているかもしれないけれど、それは気にしないのだ。違っていたとしても、「小さな出来事」を読み、読んだ以上は何か書かずにいられない、ということが一致しているなら、それで十分なのだ。

 もうひとつ、ぜんぜん違う話をつけくわえておこう。
 私はスペインを約一か月旅行した。好きなアーチストの彫刻を絵を見てまわった。その過程で、ある友人の作品について別の友人と話す。そのとき、「あの友人の、あの作品が好き」ということで、ふいに意見が一致するときがある。この瞬間、なんだかとても幸福な気持ちになる。私がその作品をつくったわけでもないのに、私がつくった作品のように自慢したくなる。それは話し相手も同じ。それがわかった瞬間の幸福とでもいえばいいのかなあ。

コメント
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