詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Lu Gorrizt

2022-07-22 22:45:53 | tu no sabes nada

 

Lu Gorriztの画廊、アトリエを訪問。
最初に驚かされるのが、この画廊とアトリエの関係である。
画廊に入ると、すぐ足元がガラス張りになっていて、地下が見える。その地下がアトリエである。地下でつくった作品を、1階のアトリエで展示し、売る。
産地直売ということばがあるが、アートの産地直売という感じである。
そして、私はここで、産地直売ならではの話を聞いた。
アメリカから客がやってきた。絵をじっと見ている。気に入ったのか、気に入らないのか。
その客は、一枚の絵を、縦のものを横に、さらには天地を逆にして眺める。そして、横にした絵か、天地を逆にした絵かわからないが、こういうのだ。
「これが気に入った」
Luは、どうしたか。
「OK、サインを書き直そう」
それまであったサインを消し、客の好みにあわせてサインを書き直した、というのだ。
その結果、17枚の作品を売った。
「もちろん変更できないものもあるが、売ることの方が大事だ」
これは、抽象画ならではの「出来事」だろう。
           


Visito a la galería y al estudio de Lu Gorrizt.
Lo primero que llama mi atención es la relación entre la galería y el estudio.
Nada más entrar en la galería, me veo un suelo de cristal, y puedo ver el sótano. El sótano es el estudio. Las obras creadas en el sótano, luego se exponen y venden en la galería.
En Japón tenemos una frase "産地直売venta directa desde el lugar de producción". Su galería es más bien de una venta directa desde el lugar de producción del arte.
Y allí escuché una historia que es única para la venta directa desde el lugar de producción.
Un cliente vino de Estados Unidos. Estaba mirando un cuadro. 
¿Le ha gustado o no?
El cliente miraba un cuadro, despues de unos minutos,de repente lo puso reves, y gritó.
“Me gusta esto".
¿Qué hizo Lu?
“Vale, voy a reescribir la firma”.
Como resultado, vendió 17 piezas.
“Por supuesto que hay obras que no puede cambiar arriba y abajo, pero es más importante venderlas”.
Esto sería un único "acontecimiento" en la pintura abstracta.

 


 
 

 


Luには小さい作品もあるが、大きいものが多い。
こういう大きい絵を、どうやって家に飾るんだろうと疑問に思うが、Luのfacebookを見ると、みんな壁面におさまっている。周囲のモダンなインテリアとも調和している。
それはたしかに「インテリア」なのかもしれないと思う。
Calo Carrataláは、絵を描くことで、そこに巨大な「空間」をつくって見せるが、Lu Gorriztの作品は、そこにある「空間」を絵によって変化させるのである。
「空間」の利用の仕方が逆なのだと思う。
Luは、壁面を新しい「窓」に変えるのである。その窓からは、いままで見ていたものとは違う「空間」が見える。「世界」と言ってもいいかもしれないが、「空間」と私は呼びたい。
そして、その「空間」の特徴は「開かれている」ということである。私が「窓」と呼んだのは、そういう思いがあるからだ。

と、書いたあとで、こう書くのは矛盾しているかもしれないが、私がいちばん気に入ったのは、「開かれた窓」ではなく、「世界の奥行き」を感じさせる作品だ。
色と形が拡散しているのではなく、この作品では、絵の奥に「焦点」のようなものがある。「遠近法」がある、と思う。
他の作品とは異質だからこそ、そのことが気になり、気に入ったのかもしれない。
実際、最初にその絵の前にたったときは、他の作品とは違うなあ、という印象しかなかった。
でも、一枚選ぶとしたら、これしかない、と感じたのだ。

 

 


Lu hace algunas obras pequeñas, pero la mayoría son grandes.
Me pregunta a m í cómo cabrían estos grandes cuadros en una casa, pero en la página de Facebook de Lu muestra que todos caben en las paredes. Están en armonía con el interior moderno que los rodea.
Su ogra podría ser un nyevo "interior"?

Calo Carratalá crea un gran "espacio" pintando, mientras que la obra de Lu Gorrizt transforma el "espacio" existente.
La forma en que se utiliza el "espacio" es lo contrario en Calo y Lu.
Lu transforma la superficie de la pared en una nueva "ventana". A través de esa ventana, vemos un "espacio" diferente al que estábamos viendo antes. Se pueden llamarlo "mundo", pero yo prefiero llamarlo "espacio".
Y la característica de ese "espacio" es que es "abierto". Por eso lo llamo "nueva ventana".

Puede parecer contradictorio escribir esto después de lo que he escrito, pero lo que más me gustad esta obra. Esta obra no tiene la "ventana abierta". A traves de este trabajo, me siento la "profundidad del mundo".
En lugar de una difusión de colores y formas, en esta obra hay una especie de "punto focal" . Creo que hay una "perspectiva".
Tal vez por ser tan diferente a las otras obras me llamó la atención, por esso me encanta este trabajo.
De hecho, cuando me puse por primera vez delante del cuadro, sólo tuve la impresión de que era diferente de otras obras.
Pero sentí que si tenía que elegir uno, éste era el único.

 

 
インテリアにあわせて作品を選ぶときもあれば、作品にあわせてインテリアを変えることもあるかもしれない。
そういう意味で、私はLuに会いたいとも思ったのだった。
Luは、Joaquinの作品を持っている。その写真をfacebookで見た記憶がある。
実際に、家のなかで、Joaquinの作品はどんな表情を見せるのか。
アトリエでの顔、展覧会での顔とも違うだろう。
Borjaの家で見たときは、少し緊張しているような感じがした。あるいは、気取っている感じがした。
Luの家ではどうだろうか。
時間がなくて、それは見ることができなかったが、いつか見てみたい。
アメリカの客が絵の天地を逆さまにしたのは、彼が自分の家の空間、世界を知り尽くしているからかもしれない。
芸術と現実の交渉の仕方はそれぞれ違うし、それを所有する人によっても違ってくるのだろう。
  
A veces elegimos obras de arte que se adaptan a nuestros interiores, y otras veces podemos cambiar nuestros interiores para que se adapten a las obras de arte.
En este sentido, también quería ver a Lu, visitor su studio y su casa.
Lu tiene una pieza de Joaquín Llorens. He visto una foto en Facebook.
¿Cómo es el trabajo de Joaquín en la casa?
Será diferente de la cara en el estudio o en la exposición.
Cuando ví un trabajo de Joaquín en la casa de Borja, parecía un poco tensos. O, parecía pretencioso.
¿ Cómo es en la casa de Lu?
No tuve tiempo de verlo, pero me gustaría hacerlo algún día.

El cliente estadounidense dio la vuelta al cuadro, quizá porque conoce el espacio y el mundo de su casa.
La forma de negociar el arte y la realidad es diferente en cada caso, y probablemente depende de la persona que lo posea.

私はまた、Luの持っている船を訪問した。操舵の免許も持っており、地中海をクルーズするのである。
船の内部を見ながら、私は、ふと画廊とアトリエの関係を思いだした。海底を見せる遊覧船があるが、彼の画廊とアトリエは、一種の「海底遊覧船」かもしれない。
「夜食会があるから、来ないか」と誘われて、私は行ってみた。
どんなアーチストが集まるのだろうか、と思っていたら、集まってきたのはクルーズ仲間というか、男性の全員が船を持っていた。Lu以外は、みんな医者だといった。
ひとりは大きなマグロを釣ったときの動画を見せてくれた。
あ、Luの絵の中に広がっている解放感は、こういうことと関係があるのか、と思った。
その解放感の前で、私がとまどってしまうのは、その解放感が私の知っている解放感とはあまりに異質なものだからかもしれない。
私の体験できない解放感を、日々生きている人たちがいる。

  

 


  
También visité un barco que tiene Lu. También tiene licencia para dirigir el barco, que navega por el Mediterráneo.
Mientras miraba el interior de la nave, recordé la relación entre su galería y su estudio. Hay cruceros que muestran el fondo del mar, y su galería y estudio podrían ser una especie de "crucero submarino".
El me invitó una cena con sus amigos.
Me pregunto qué clase de artistas habría allí, pero resultó ser un grupo de compañeros de crucero; todos los hombres tenían barcos, excepto Lu, ellos son médicos.
Uno de ellos me enseñó un vídeo en el que pescaba un gran atún.
Pienso si la sensación de liberación que impregna los dibujos de Lu tenía algo que ver con esto.
La razón por la que estoy tan confundido ante este sentido de la liberación puede ser porque es muy diferente del sentido de la liberación que conozco.
Hay personas que viven diariamente con una sensación de liberación que yo no puedo experimentar.

 

 

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稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」

2022-07-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)

稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」(「イリプス」37、終刊号、2022年07月10日発行)

 稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」をどう読むべきか。その一連目。

あなたの掌を解き、
握られた紙片をふたたび世に戻すと
陽の翳りに、遠く生き急いだ命の数々が
短く在ったみずからの声の幸福を響かせている
ラジオの鳴る冬の縁側に
一旦はただ人として座ったあなたが
郵便配達人の自転車を待つ間
その数日の間に、
わたしは僅かな未来へとあなたの遺志を繋げるために、
蒼空の幼い階音(はるもにあ)を聴き続けた

 うまいないあ。でも、うまければいいのかどうか、よくわからない。なぜ、うまく感じるか。ことばの「呼応」がしっかりしているからだね。しっかり呼応し、しっかり完結している。
 問題は、そのあと。
 いまどき「ラジオの鳴る縁側」って、いったいどこにあるのだろうか。「いま」ではなく「記憶」を書いていると言われればそれまでだけれどね。 
 同じことは「郵便配達人」「自転車」。自転車に乗った郵便配達人というのは、いつまでいただろうか。いまも、いるかなあ。
 なんだか志賀直哉よりももっと前の、昭和初期、大正末期の短編小説みたいだなあ、と思う。母を思う子供のきもち、がテーマなんだろうけれど。
 
 それから。

 私は困惑してしまうのだ。一連目の緊密な「呼応」が二連目では「すかすか」になる。
 「合理の生」とか「永遠精神」とか。
 とくに「合理の生」は二度出てくる。
 稲川の意識のなかでは「意味」があるのだろうけれど、何のことかわからない。稲川の詩には、どこか「出自」のわからないことばがあって、その出自をわかる人だけが読めばそれでいい、という開き直りのようなものがある。
 まあ、いいけれど。
 でもね、それって結局、生きている「肉体」の否定にならないか、と私は問いたいのである。
 ことばにはことばの肉体といのちがある。その肉体といのちを稲川は引き受けている。そう開き直られれば、私は単なる「反知性主義(これでよかったかな? 何度か、こんなふうに私は呼ばれたことがあるような記憶があるが、何といってもそんなことばを日常的につかうひとが私のまわりにはいなのので、ことばが私の肉体にまでしみこんでこない)」ですと引き下がるしかない。
 こんな詩、いやだなあ、と聞こえるように言いながら。

 

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