峯澤典子『微熱期』(思潮社、2022年06月20日発行)
峯澤典子『微熱期』の、詩篇に入る前のページに、次の三行がある。
すべては
青い
微熱のなかへ
この三行を読んだ瞬間に、この詩集の特徴がわかる。「青い」ということばが、すべてを語っている。これが「茶色」だったり、「黒」だったり、「薄汚れた紫」だったりすると、少し複雑である。しかし「青い」から私が連想するのは「透明」とか「美しい」とか「静か」とか「哀しみ」ということであり、実際に、詩はその通りに展開する。
巻頭の「夏の雨と」
明け方の雨は
散ってしまった花びらの
あとを追うように
夢のなかの
夏の地図を濡らしていった
ね、美しいでしょ? そして、その美しさに「矛盾」がないでしょ? 想像どおりのことが起きるのである。雨が降る、花が散る、散ったもの(なくなった/失ったもの/たぶん恋人)を追いかける。これは、「文学」の「定型」である。
峯澤の特徴は、この「文学の定型」をていねいに守ることである。だからとても読みやすい。つまり、何も考えずに、峯澤のことばに身を任せることができる。何も危険なこと(私の考えていることを覆すようなこと)は起きない。よくできた、とてもよくできた、完成された「文学」を読む安心感がある。
二連目は、こうつづく。
それは
もう訪れることはない
遠い南の町
雨あがりの
ひと気のない朝の坂道で香っていた
ライラック
薔薇
ジャスミン
すがたの見えない蝶たちのかげ
「地図」の町が、サラ金の取り立て人がどの街角にも待っている街(だから、逃げてきた)だったりすれば、やはり「もう訪れることはない」町になるかもしれないが、峯澤はそういうことは書かない。あくまでも詩の「美しい」ことばが落ち着く「遠い」町である。このときの「遠い」は空想であり、あこがれである。つまり、意識(脳)がつくりだした町である。脳(意識)というのは、矛盾を嫌う。合理的で、整合性がとれるように、平気で嘘をつく。峯澤が「うそ」を書いているというのではないが、それはあまりにも「統一性」がとれていて、リアリティに欠ける。「ライラック/薔薇/ジャスミン」。よく三つも美しい花がそろったものだ。そういう町はあるだろうけれど、あまりにも人工的だ。これに追い打ちをかけるのが「すがたの見えない蝶たちのかげ」。ああ、これは、もう「頭の中」にしか存在しない。ここまで到達してしまうところに峯澤の「特徴(長所/美点)」があるのだろうけれど、なんというか、もう読まなくてもいい、という感じがしてくるのである。きっと、どこまで読んでも「文学の定型」がつづくだけなのだろう、と思ってしまう。もちろん、その「文学の定型」を維持できるというのは、いまでは貴重な資質だとは理解できるけれど。
ひとの一生は
そんな儚いものの名を歌うように覚え
そしてまた
忘れてゆくだけの
つかのまの旅 だとしても
「儚い」は「つかのま」と言い直されているが、そのあいだにていねいに「忘れていく」ということばがさしはさまれる。この「忘れる」という動詞は、直前の「ものの名を歌うように覚え(の)」と呼応している。ことばの「呼応」が正確なので、文句のつけようがない。つまり、読んでいてつまずかない。
これはたしかにいいことなのかもしれないが、完璧というのは、ときとして退屈でもある。読者は(私は)、わがままなのである。つまずいて、そこで何かを考えたい。考えることで、峯澤のことばと「交渉」がしたい。私自身のことばを変えないと、絶対にたどりつけないものがある、と感じたいのだ。このままでは、峯澤の完璧な歌(カラオケで採点すれば100点の歌唱力、「うまいでしょ?」自慢している歌)を、「あ、うまいね」と聞いているようなものなのだ。
失ってしまったものを数えるかわりに
ライラック
薔薇
ジャスミン
その散りぎわの
薫りの強さを思いながら
わたしは
雨の朝でも
暗いままの窓をひらきつづけよう
いまも夢のなかでは会える
あなたと歩いた
遠い花の町の
やわらかな月日の
雨おとが
私の濡れたまぶたのうえで
またあたらしい
夏のはじまりとなるように
静かな哀しみは、おだやかな喜びでもある。それはそれでいいとは思うが、私は、どうしようもない憎しみが、拒んでも拒んでも侵入してくるような詩を読んでみたいと急に思うのだった。「微熱」というのは、そういう拒みきれない何かとの戦いのとき、肉体の奥から滲み出してくるものだと、私は感じている。「青い/微熱」というのは、ひとりで哀しみの空想を生きているようで、「あ、このひとはナルシストなのか」と感じ、それ以上近づきたいとは思わなくなる。
よくフェイスブックで「いいね」のかわりに「100点」というスタンプを残しているひとがいるが、そうだね、この詩集の点数はと聞かれたら、私は「100点」をつけて、あとは口を閉ざすかもしれない。「100点」をつけておけば、筆者から「苦情」もこない。でも、私は、そういうことはしないのだ。「100点」なんて、読まなくてもつけることができる。読んだ限りは、読んだときの感想を書かずにはいられない。