デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(2)(七月堂、2022年05月05日発行)
「プロローグ」という詩は、「わたしのじんせいはくるうようにつくられた人生でした。」という行ではじまる。「じんせい」と「人生」がつかいわけられている。そのつかいわけについては、ここではそれ以上考えない。ただつかいわけられている、ということだけを意識しておく。
このあと、
わたしじしんをゆるし、このさき
ものをたべつづけるためには、わたしは、あなたと、
おなじことをしなくてはなりません。
「あなた」が出てくる。だれのことか、わからない。わからないけれど「あなた」が出てくる、ということだけを覚えておく。
読み進むと、抽象的だったことばの世界が、突然、生々しく変わる。
わたしは、ささやかななぐさめをもとめあった
ちちとははからうまれました。
父と母が出会った時、ふたりは愛撫し
合いましたが
きづいたらたがいを逆撫で、し合っているのでした。
だからあなたは、あなたのおとうさんが卑猥な
写真をみて日々をすごしていると知ったとき、
ほっとしてしあわせをかんじるのです。
胃が痙攣し、頭が重くなり、
囁きがきこえはじめるのです、あしがふるえるのです。
「ちちとはは」が「父と母」にかわる。デイヴィッド・イグナトーが、そのことばをどう書き換えているのか、私は知らない。千石英世は、何らかの「違い」を強く感じ、それをひらがなと漢字につかいわけている。
「わたし」と「あなた」は、それに類似した「つかいわけ」かもしれない、と私は感じる。
「ちちとはは」が「父と母」であるように、「わたし」は「あなた」かもしれないと思う。そのあと、「父」は「おとうさん」と言い換えられているが、このとき「おとうさん」は「わたし」かもしれない。つまり、「おとうさん」になっている。「おとうさん」と同じように、気づいたら「卑猥な/写真をみて日々をすごしている」。そして、ああ、あれはこういうことだったのかと思う。
「こういうことだったのか」というのは、特に、言い換えて説明しなくてもいい。ただ「肉体」で、それを思い出すのだ。ことばで「説明」すると、きっと違ってくる。
「わたし」を「あなた」と呼ぶように、何か、突然、自分を客観化して理解するような感じ、客観化することでより主観的になるというと変だけれど、より複雑に融合して、分離不可能になるような感じ。
それは「じんせい/人生」「ちちとはは」「父と母」の関係についても言えるかもしれない。
それから「愛撫/逆撫で」ということばのなかに「撫」という漢字が共通するところにも通じるかもしれない。
私は、こういうことは、これ以上明確にしない。明確にしようとすると、そこに「うそ」がまじる。感じていることではなく、頭が、勝手に「論理」のようなものをつくり出して、それを「結論」にしてしまうことを知っているからだ。そうなってしまうと、もう、そこには私の読んだ詩はなくなる。
ただ、最終連の
ほっとしてしあわせをかんじるのです。
という一行は、とてもいいなあ、と思う。ここでは「ほっとする」と「しあわせ」がとてもやさしく融合している。「じんせい/人生」「わたし/あなた」「ちちとはは/父と母」にも、そういう「融合」があったはずなのである。そう、思うのだ。
この感じは「ひとつの存在論」のことばと重なり合う。
闇のなか、ベッドをぬけだし、
台所へむかう。
かべをまさぐる。
ざらざらしたところ、つるつるしたところ、
われたところ、あなになったところ、
もりあがったところ、へこんだところ、それぞれ、そのたびに、
わたしの手がそのかたちになる。
ゆかが軋み、たわむ。
そのくりかえし。そのたびに
あしのうらはそのかたちになる。
肉体(手/足)が触れたものの「かたちになる」。このとき「かたちになる」は、きっと「かたち」を超えて、そのものになる、ということだと思う。手は壁になる。足は床になる。つまり、区別がなくなる。ほんとうは壁が手になり、床が足になる、と言い直したいくらいである。
この一体感(存在するのは、わたしの肉体だけ)という感じは、「プロローグ」の「わたし/あなた」の一体感に通じる。
「ひとつの存在論」は、実は、つづきがある。私は、引用した部分で終わっていると思ったが、デイヴィッド・イグナトーはさらにことばをつづけている。それを読みながら、私は苦しくなってくる。
私が引用した部分だけでは「抽象論」になってしまうのだろう。それだけでは満足できない「ことば/肉体」があり、どうしても動いてしまうのだ。それは「胃痙攣」のように、自分の力では制御できない「訴え/異変」である。動くだけ、動くにまかせるしかないものなのである。
もう、これ以上書かない。ただ、そのどうしてもデイヴィッド・イグナトーが追加しなければならなかった行を引用しておく。最後まで読むこと、それがデイヴィッド・イグナトーになることだから。「なる」ということを味わう詩集だ。
せまい廊下なので肩がつかえる。台所までつかえつづけて、
ようやくたどりつく。あかりがまぶしい。
ゆくべき方向がわからないので、わたしは
食べる。わたしはぱんの
一部となり、みるくの一部となり、ちーずの一部となる。
わたしはそれらのやすらぎとなる。わたしはわたしによってえいようを
あたえられるのだ。ベッドへもどる。わたしはマットレスになって、
わたしのうえにねむる。
めをとじて、ねむりになる。ねむりはゆめになる。わたしは転々する。
制御不能を得て、わたしはいたるところでわたしになる。
それがわたしだ。わたしとはわたしになってしまうもののことだ。
わたしが移動するとすべてがいどうするので、
わたしはそのいどうするすべてだ。
わたしになってしまわなければ痛みはない。
だがわたしがあるので、わたしはあるところのものである。
だが「なる」はむずかしく、いつでも「ある」が顔を出す、とつけくわえておく。いま、私が追加で「ある」と書いたように。