詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高野尭『マルコロード』

2022-07-14 22:51:34 | 詩集

高野尭『マルコロード』(思潮社、2022年07月20日発行)

 高野尭『マルコロード』を読む。私は最近までスペインにいたので、日本語の詩を読むのは約一か月ぶりである。だから、そこに書かれていることばに、うまく適応できない。読み違いをしてしまううだろうが、まあ、そこにはそれなりの必然がある、と「弁解」から書いておく。高野の詩が、よくわからないのである。
 「蝦蟇の罠」という作品。

逆流にあらがう蛙はうつくしい、おとなになる

 書き出しの一行で、私は私の青春時代、つまり1970年代にもどる。そのころの、詩のことばを思い出す。私の詩、というよりも、60年代の、安保敗北後の詩のことば、ことばの屈折を思い出してしまう。
 まず「逆流」がくる。ここには社会と個人の対立が象徴されている。まだ社会に対して、立ち向かう若者がいた。反抗する若者がいた。それは「うつくしい」。結局敗北するのだが、敗北もまたうつくしい。抵抗し、敗北し、敗北を受け入れることが「おとなになる」ということだった。(清水哲男兄弟の詩風、特に哲男の詩風を思い出してもらいたい。)
 これは、次のようにいいなおされる。

片手に発泡酒缶をにぎり、蛙になる
間がもてない、うつくしい青年だ、青年だ

 あの頃はまだ発泡酒というものはなかったから、高野は70年代を描いているわけではなく、もっと今に近い時代を描いている、あるいは現在を描いているのかもしれないが、ことばは70年代を生きている。
 「うつくしい青年」には自己陶酔がある。詩人の特権である。自己陶酔しなければ、だれが「うつくしい青年」と呼んでくれるものか。
 このあと、その自己陶酔が、それこそうつくしいことばを呼び寄せる。

がらんどうの胸襟をひらいて青年になった
つれない風にうなじをこそがれ
しわぶく蛙の喉、しわぶきのあたりに
泡をふいて青年になっていく

 「しわぶきのあたり」の「あたり」が絶妙だなあ。ここには、高野独自の音楽が響いている。これをもっと聞きたいと私は思うが、高野はこの音楽を自覚していないかもしれない。だからこそ、私は、そういうことばを「キーワード」と呼ぶのだが、ここではこれ以上のことは書けない。「あたり」ということばがどれだけ深く高野の肉体に食い込んでいるものなのか、どこまで無意識化されているものなのか、まだ高野の「文脈/文体」になじめないでいるからだ。(きっと旅の「時差」のようなものが、私の肉体のなかにしつこく残っていて、それがじゃましている。)

蛙だ、青年になる、青筋がたって
つめよってくる、ぞうの意象をはらい
切り詰めるひとの芽は不思議に思う
あそこにもここにも、なんの矛盾もない

 この「転調」に、私はとまどう。特に「ぞうの意象」ということばのなかにある、「ぞう」と「象」の交錯の前で、「あたり」ではなく、この「ぞうの意象」のような瞬間的な、あるいは主観的なずれこそが、重複が高野のことばの本質(キーワード)かもしれないと思ったりもする。よくわからない。わからないが、いま引用した部分で言えば「あそこにもここにも、なんの矛盾もない」の「あこそにもここにも」という軽い響きに、「あたり」に通じる音楽を感じる。「なんの矛盾もない」という明るさもいいなあ、と感じる。

カーソルをすりよせ、結局フリーズしている
昼休みのログオフを長押しすれば
カップ麺の汁をすする、少年だった
すり鉢の貧乏ゆすりに、波風をたてる
鈍感な蝦蟇だ

 ああ、ここから先は読みたくない。「うつくしい青年」を高野は最終的に「無垢な少年」と言い直すのだが、これでは「逆行」というものだろう。それが、新しい詩なのか。「うつくしい青年」は敗北することで「大人になる」が、敗北を「無垢な少年」に押しつけるのは、「大人になる」のではなく、「こどもになる」ことだ。
 「還暦」ということばがある。高野は、そのことばどおり、「還暦」後を、「無垢な少年」として生きていこうとするのか。
 それもいいかもしれない。でも、いまは70年代ではない。それより以前の60年代にまで引き返す覚悟があるのかどうか、私には、高野の書いていることばがよくわからない。その運動の方向が、わからない。

 

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「お友達政治」を徹底追及する好機

2022-07-14 19:14:30 | 考える日記
安倍は殺害された。
しかし、それは安倍の政治信条が原因ではない。
たとえば、安倍の提唱する改憲運動に反対する誰かが安倍を殺害したのではない。
アベノミクスによって貧困に陥れられた誰かが安倍を殺害したのでもない。
安倍は、悪徳商法団体(宗教団体を名乗っている)の宣伝をしていた。悪徳商法に深く関係していると思われていた。(実際、無関係ではないだろう。)そして、悪徳商法の被害者(そのひと自身は、被害者とは思っていないかもしれない。なぜなら、そのひとにとっては、その団体は「宗教団体」だったからだ)の家族によって殺害された。
ここには、ふたつの認識が交錯している。
どの認識の側に立つかは、それぞれの「宗教観」「道徳観」によって違うだろう。私は「無宗教/無神論者」なので、単純に悪徳商法団体と被害者(の家族)、悪徳商法団体とそのPR活動の視点から、今回の事件を見ている。
つまり、安倍は、政治家として殺害されたのではなく、悪徳商法団体の宣伝マンとして殺害された、と私は見ている。
で、これが、なんというか、問題をややこしくする。
悪徳商法団体の宣伝マンが殺害された(いわば、一般市民が殺された、営業活動に熱心だったひとが殺された)ということになる。
では、そのひとが悪徳宣伝マンだったから殺害されていいかどうかになると、これは、また違った問題になる。
どんな人間だって、殺されていいわけではない。殺したっていいわけではない。
どんなときでも殺人に対しては、それを否定しないといけない。
で、ここからである。
殺人は否定しなければならないが、その否定の過程に、事実関係以外のものが入ってくるとおかしくなる。
安倍は、私の見る限り、悪徳商法団体の宣伝マンをしていたから殺されたのであって、政治家として殺されたのではないのだから、今回の事件の本質を見極め、加害者の行動をどう批判していくかは、慎重にならないといけない。
でも、その一方で、安倍が悪徳商法団体の強力な宣伝マンになりえたという背景には、安倍が政治家だったからという側面がある。安倍が政治家でなかったら、安倍は宣伝マンにはなり得なかった。
ここからまた別の問題が出てくる。
なぜ、安倍は悪徳商法団体の宣伝マンになったのか。きっと悪徳商法団体から多額の金が安倍に流れていたからだと思う。
金をもらわずに、安倍が、宣伝マンになるはずがない。「お坊っちゃま、偉い」と言って、金をくれるひと以外を優遇するはずがない、と私は安倍を把握している。
安倍は、宣伝マンになるとき、政治家という肩書を利用したのである。
安倍の政治家としての「資質」が問題になってくる。
この「資質」を抜きにして、安倍を擁護するのは、なかなかむずかしい。
「政治家としての資質」がないから、その政治家を殺していいとは言えないからだ。
殺害は悪いことである。
それを基準というか、論理の出発点にしてしまうと、問題は簡単にすり替えられてしまう。
経済的困窮に陥った男が、現実認識をあやまり、安倍という政治家を殺害した。安倍は完全な被害者だ。
政治家を追放するには、政治家を選ばない(選挙で落選させる)だけでいい。命を奪う必要はない。これが民主主義の鉄則である、という論理があっというまに広がる。
でも、こういう論理を広げてしまう人たち(さらには安倍のやってきた政治的失敗を、功績のように言い立てる人たち)は、いったい何を見ているのだろうか。
「政治の理念」「政治倫理」、あるいは「人間の倫理」について、ほんとうに考えているのか。
悪徳商法団体から金をもらうこと、悪徳商法団体があるのをしりながら、その団体を規制する法律をつくろうとしない「政治家」がほんとうに「政治家」といえるのかどうか。
安倍だけではない。多くの「政治家」が悪徳商法団体とつながりをもっている。なぜなのか。金が動いているからだろう。悪徳商法団体が市民をだまして奪い取った金が政治家に還流しているからだろう。
日本では「金の流れ」を「政治」と呼んでいる。「金の流れ」によってできる人間関係を「政治」と呼んでいる。その「人間関係(だれがだれに金を供与するか、その見返りになるにするか)」が「政治」と呼ばれている。
別なことばで言えば、「だれとだれがお友達であるか」が「政治」なのである。「お友達」であれば、たがいに助け合う。「お友達」でなければ、知らん顔。
ここまで書いてくると、安倍のやってきた「政治」そのものと重なる。
だから。
ある意味では、ほんとうに「日本の政治」が問われているということでもある。
いま、「殺人」という衝撃的な事実によって、「安倍の政治(お友達政治)」が隠蔽されるなら、日本には「政治」(民主主義)は存在しないことになる。
「司法」によって、「金」と「お友達政治」の関係を明確にする必要がある。
安倍のつくりあげようとした民主主義ではなく、本来の意味での民主主義が、いま、たいへんなところに追い込まれている。
でも、この「たいへん」は、逆に考えれば、「安倍のお友達民主主義」を徹底的に批判する好機でもある。
私は、そう考えている。
国会で(なぜ、すぐに開かないのか)、弱小化した野党が(特に立憲民主党が)、この問題をどれだけ追及できるか。
それが、これから問われる。
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