岩佐なを「亀なく」(「孔雀船」100、2022年07月15日発行)
岩佐なを「亀なく」は俳句の季語「亀なく」という「ことば」を題材にしている。
例によって
強風にのって
転校してきたはいく君の家では
亀がなくという
まじで。
いじめているのか
亀なかして
「まじで。」ということばで、突然、現実がはいりこみ、「いじめているのか/亀なかして」にくると、もう季語なんか関係ないね。
「人間関係」が浮かび上がってくる。どうも、人間関係というのは「ウソ」が入り込めない。「ほんとう」が動いてしまう。「亀がなく」というのは「ウソ」だとしても。
この詩の場合、最初の「ほんとう」は子供は腹がへる、ということ。そして、何かを食べる。
おかあさんも
おとうさんも
なんの気配がなくても
友情をみしみしと感じて
むはむはと和菓子を食べると
灰苦君がほんとは
亀は家にいない。と
言った
亀がなくはなしは嘘じゃない。と
言った
ウソ(ことば)とほんとう(肉体)が交錯する。そして、ときどきことばの方が、肉体をリードしてしまう。それがことばと肉体の関係ののおもしろいところだ。ことばの方が、ひとりの人間の肉体よりも長生きしているせいかもしれない。ことばは地区たいを超えてしまうときがあるので、その超越性ゆえに(特権性ゆえに)、「ほんとう」であると肉体を説き伏せてしまうのである。つまり、聞いたことがなくたって、見たことがなくたって、亀は鳴いたってかまわない。だから、そのほかのことだって、ウソではなく、ほんとうだってかまわない。
亀はどうやら任務で
おとうさんの部下の恨死魔さんを
乗せて海底へでかけたらしい
仕事がつらくてなくのかもしれない
子供というのは、知らないことばというか、聞きかじったことばをつかって「世界」のなかへ強引に入っていく。「任務」とか「仕事がつらくて」とか、ね。これは「亀が鳴く」と同じ。「事実」を知らないけれど、ことばをつかって、「世界」を確かめる。「意味」も知らずに。そこには「ほんとう」と「ウソ」が交錯する。
などと書くと面倒くさいが。
このあたりの、ずらし方、が岩佐はとてもおもしろい。
「ほんとう」と「ウソ」、「ウソ」と「ほんとう」というのは、それを知っていると勘違いしているか、知らないと言えるかの「境目」を動くようなものだ。子供にかぎらず、大人になっても、テキトウに知ったかぶりをすることがある。「ウソ」かもしれないけれど「ほんとう」と言っているのだから、「内容」ではなく、言っている人がそこにいるという「事実」を手がかりに「現実」乗り切ってしまうのである。
ひとごろしの乗りものに
なって海に沈んでゆく姿
を想うと
どうにも
渋いお茶が欲しくなった
ぼくらはもう
すでに子どもっぽくない
亀をきっかけに
友だちができれば
それはそれで
よしとしている
いいなあ、この終わり方。余裕がある。「どうにも/渋いお茶が欲しくなった」の切り返しがとてもリアルだ。肉体的だ。余裕というのは「事実/肉体の存在」のことかもしれない。でも、そこに「意味/結論」はない。それがいいのだ。