詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Borja Trénor Suárez de Lezo

2022-07-21 15:30:20 | tu no sabes nada

 

Borja Trénor Suárez de Lezo のアトリエを訪問した。
有名な画家の作品がいっぱい。大好きな彫刻家の作品もたくさんある。
写真に撮ろうとしたら、「それは撮らないで」。
「君は私の作品を見に来たのかね、他の人の作品を見に来たのかね」
私は最初の計画はすぐに忘れてしまう人間のようだ。
私はもともと写真で記録するより、目の記憶を信じる人間だけれど、あまりの感激に頭が混乱しそう。


            
La visita al estudio de Borja Trénor Suárez de Lezo.
Hay muchas obras de pintores famosos. Incluso muchas obras de mi escultor favorito.
Cuando intenté hacerles una foto, me dijo que NO.
"Has venido a ver mis trabajos, o las de otros artistas?
Me parece que soy una de esas personas que olvidan rápidamente el plan inicial, cuando veo las cosas inesperadas.
Soy una persona que confía en la memoria de mis ojos más que en la  fotográfica, pero estoy tan impresionado que mi cabeza parece confundirse.
ボルハの自宅にも招待された。私の好きな画家の絵もあった。名前は出せないが、思わず「これ、本物?」と聞いてしまった。自宅訪問というより、美術館訪問。ここでも、私はボルハの作品ではなく、他の人の作品に目を奪われてしまった。写真は撮ってもいいが、公開するのはダメ、と念を押された。

También me invitó a su casa. Hay cuadros de mis artistas favoritos también. No puedo mencionar su nombre, es secreto. Entonces no pude evitar preguntarle a Borja: "¿Esto es original?" Fue más bien una visita a un museo que a una casa indvidual. Una vez más, mis ojos no se fijaron en la obra de Borja, sino en la de otros. Me dijo de nuevo que podía tomar fotografías, pero no mostrarlas al público.

 


Borjaは映画関係の仕事をしていたので、アトリエにはディレクターズ・チェアや映画でつかった有名画家の作品もあった。サインに「Borja」の名前が見える。Borjaに献上したのだ。
映画の話をしたとき、ビスコンティが素晴らしい、で意見が一致。「家族の肖像」「ベニスに死す」と話題が広がり、
「私はベニスに行ったことがない」
「ベニスを知らないなんて、、、」
それから、Borjaの体験した素晴らしい一夜のことを聞いた。
誰もいない夜のサンマルコ広場。
妻と二人で歩いていると、バイオリンの調べ。
二人だけで踊った。
ああ、まるで映画そのもの。
そういうことを本当に体験する人がいるのだ。

           
Borja trabajaba en el cine, por lo que en su estudio hay una silla de director y obras de pintores famosos utilizadas en las películas. En la obra puedo ver el nombre "Borja", esa obra fue dedicada a Borja.
Cuando hablamos de películas, coincidimos en que Visconti es excelentisimo. La conversación se centró en “Retrato de familia” y “Muerte en Venecia”.
“No he estado en Venecia todavia”.
“No puedo creer que haya una persona que no conozca Venecia".
Y me contó de una noche maravillosa que había vivido Borja.
“La plaza de San Marcos por la noche, no había nadie…..”.
Mientras él y su esposa caminaban solos, escucharon el sonido de los violines. Bailaron, la pareja sola.
Ah, como es la hermosa película.
Hay personas que realmente tenían experiencia esas cosas.


   
   
肝腎のBorjaの作品。
アトリエで見た1枚の絵が忘れられない。無彩色で構成されたとても静かな絵だ。
孤独が向き合っている。孤独の背中(頭)と孤独の顔。どんなことばが交わされているのか。ことばは必要ないかもしれない。ことばを交わさずとも、互いの感じていることはわかる。
周囲のにぎやかさから離れて、部屋の隅で呼吸している。
Borjaの周囲にある作品は、彼の社交のようににぎやかだが、Borja自身はそのにぎやかさのなかに染まってしまわずに、自分を守っているという感じがする。
そんなことを感じだ。

El trabajo de Borja.
No puedo olvidar un cuadro que vi en su estudio. Es un cuadro muy tranquilo compuesto por colores acromáticos.
La soledad es enfrentarse. La espalda (cabeza) de la soledad y la cara de la soledad. ¿Qué palabras se intercambian? Las palabras pueden no ser necesarias. Aunque no intercambien palabras, saben lo que siente el otro.
Esta obra respira en un rincón de la sala, alejada del bullicio de su entorno.
Las obras que rodean a Borja son tan animadas como su vida social, pero tienen la sensación de que el propio Borja. Se protege si mismo puro.

 

 

 

車でホテルまで送ってもらうとき、こんな話をした。
スペインには偉大な彫刻家が3人いる。「〇〇と〇〇と、Joaquinだ。私のなかでは、Joaquinがいちばんだ」
ここでJoaquinの名前が出てくるところが、うれしい。すでに書いたが、私はJoaquinの作品に出会うことで、次々にスペインのアーティストに出会った。いわば、彼の作品はスペインアートの入り口である。
「画家も3人。〇〇と〇〇と、あとひとりが名前を忘れてしまった」
「あ、知っている。ナンバーワンはBorjaだ」
それから、病気だとか、手術だとか、年齢の話をした。
私のほうが2週間ほど年上とわかった。「私の方が年上なんだから、君は私を尊敬すべきだ」という減らず口をたたいて別れた。
Borjaの包容力は、私をリラックスさせる。
                       
Mientras me llevaba al hotel, tuvimos esta conversación.
“Hay tres grandes escultores en España.: **,** y Joaquín. En mi opinión, Joaquín es el major, mi buen amigo". Me alegro de que el nombre de Joaquín se menciona Borja.
Como ya he escrito, la obra de Joaquín me llevó en el mundo de artistas españoles. Su obra es la puerta de entrada al arte español.
“Pintores:**, ** y uno más cuyo nombre no viene en mi menta".
“Oh, yo lo sé.  Es Borja y el número uno es Borja”.
Entonces hablamos de nuestras enfermedades, de operación, de edades.
Notamos que tengo unas dos semanas más mayor que él. Pore so le digo a Borja: "Soy pobre, pero soymayor que tú, deberías respetarme, jajaja".
La receptividad de Borja me relaja.

 

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安俊暉『武蔵野』

2022-07-21 00:01:29 | 詩集

安俊暉『武蔵野』(思潮社、2022年05月17日発行)

 安俊暉『武蔵野』は短いことばがつらなっている。28ページに、こう書いてある。

古里の
葦の葉
急ぎ揺る
われ
君に会いてのち
揺るごと

君に会いて
のちより
古里の
葦の葉の
急ぎ揺る

 最初の連と次の連とどこが違うのか。どちらかひとつでいいと思うが、安は一方を削除するのではなく、両方を残している。
 55ページは、こうである。


生けし花
山ごぼうと
すみれ
小ビンの
中に


生けし
野菊
小ビンの中に
また
小さく

 何にこだわっているのだろう。83ページから84ページにかけて。

無花果
伸びゆく
幾度かの
思い
重ねつつ

幾度かの
思い
重ねつつ

無花果の葉
散りゆく

 「思い/重ねつつ」が繰り返される。あ、安は繰り返すことで「思い」を重ねているのだ。「重ねつつ」あるのだ。この「つつ」が安のことばの動きの基本なのかもしれない。思いを重ねるけれど、重ねておしまいではない。重ねつづけるのである。「つつ」は「しながら」という意味を持っているが、それはある動詞に別の動詞を重ねるということだろう。そうやって少しずつ動いていく。
 これは詩というよりも、小説のことばの動き方だろうと思う。
 安は瞬間を書いているのではなく、変化していく時間を書いている。しかも、それは激しく変化していくというよりも、どこが変化したのかわからないような、けれど、振り返れば「変わった」としか言いようのない動きである。たぶん、それは安には切実に、くっきりと見える。そして、私には、くっきりとは見えない。ああ、また繰り返しかと読んでしまう何かなのだが、私はここでは、その見えない何かを明確にしたいときは思わない。不明確なまま、そういう動きがあるということだけを見つめていたい。
 他人のことは、わかるはずがないのである。そして、わかるはずがないにもかかわらず、わかってしまうものなのである。そして、その「わかった」は強引にことばにしてしまうと、たぶん、私の「結論」の押しつけになってしまう。安が書こうとしている、「書けないもの」とは違ってしまう。
 書いているが、「書けないもの」がある。その「書けないもの」が、少しずつ重なって何かになるのを、ただ、見つめていればいいのだと思う。

カボチャ花
黄の
安らぎてある
午前
君と別れゆく

カボチャ
初花の
黄の
昼またず
しぼみゆく

 「午前」を「昼またず」と言い直している。ここに、何か、切実なものがある。ここには「重なり」ではなく「ずれ」がある。「午前」と「昼またず」は「意味」としては同じかもしれない。つまり、たとえば「午前10時」という意味では同じかもしれない。しかし、それは「午前」なのか「昼またず」なのか。「またず」のなかに、時間の長さへの切望がある。
 191ページから192ページ。

君来れば
時現れる

君と
語りをる
時重なりて
無限となる

 「思い/重なりて」が「時重なりて」に変わる。「思い」は「時」のことである。「時」とともにあり、「時」ともに変化していく。そして、その「変化」のなかに「無限(永遠)」がある。
 安がことばを動かすのは、その「無限」へ向かってのことなのである。

鳥の声
君と僕の
位置

その都度
新しき

積み重なりて
来る


終わることなく
四十雀
またくる

 「くる」「時」を、受け止めるための詩なのだ。

「つつ」と「て」の使い方について、書いてみたい衝動に私はとらわれているが、長ったらしくなりそうなので、その使い方に安の「思想/肉体」を感じたとだけメモしておく。

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