日本語学校で、村上春樹の「海辺のカフカ」(テキストは新潮文庫)を読んだ。生徒はカナダ人。38歳。
高校1年のとき、日本に留学していた。しかし、多くの漢字を忘れている。だから、漢字はときどき読むことができないのだが、「小説」の読解能力は、超一流。
15ページに「二重の意味」ということばが出てくる。この「二重の意味」は、いわばこの小説のキーワード。小説のなかでは、あらゆるものが「二重の意味」のなかを展開していく。その「予測」を、「二重の意味」ということばにつづいて書かれている「光と影。希望と絶望。……」ということばをつかって語り直すことができる。つまり、「予測」ができる。(あ、繰り返しになってしまった。)
私がさらに驚いたのは、16ページ。
「土地のろくでもない連中とかかわりあうことなる、の『ろくでもない』は、どういう意味ですか? ろくに漢字はありますか?」
「ろくは漢字で書けば、禄。財産とか、金の意味する。(昔は、給料を意味した。)昔は、金持ちは、正しい、という印象。だから、ろくでもないは、正しくない、というような意味。ろくでもない連中は、ギャング、マフィア、やくざみたいな感じ」
「ちんぴら、ですね」
「あ、そうそう」
「先生は、いろんなことを知っているけれど、現代の俗語(?)は、私の方が知っている」
「あ、ほんとうに、そう」(私は、いまの若い人がつかうことばは理解できるが、自分でつかうことはない。だから、ちんぴらも聞けばわかるが、自分では思いつかなかった。そういう意味で、とても教えられた。)
というやりとりのあと、つぎの一言がすごい。
「村上春樹は、ここでは少年に『ちんぴら』ではなく『ろくでもない連中』ということばをつかわせることで、少年の育ちの良さを表現している」
まさに、そのとおり。
たとえば何かの試験で「村上春樹が、ここで『ちんぴら』ということばをつかわずに、『ろくでもない』ということばをつかった理由は何か、どう考えられるか」という設問が出たとき、彼のように答えられる日本の学生が何人いるか。
9ページの「砂嵐想像ゲーム」の場面で、ここで「カラスと呼ばれる少年」と「僕」が同一人物であることがわかるのだが、このとき、デービッドはそれを即座に理解した。
「日本人の読者のどれくらいの人が、ここで同一人物とわかるか」という厳しい質問が出たが、たぶん、1割だろう。小説を読まないひとは、ほとんど「理解」しないだろうし、「同一人物である」という根拠を「目を閉じる」「暗闇」「ため息/静かに大きく息をする」「共有」ということばをつかって論理的に説明し直すとなると、かなりむずかしいと思う。
私は村上春樹は好きではないのだが、日本語を教えるには最適の教材だし、その「最適の教材」の「最適」な部分にきちんと反応する生徒に出会うと、とても楽しくなる。