詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マリヤム・トゥザニ監督「青いカフタンの仕立て屋」(★★★★★)

2023-06-24 15:27:07 | 映画

マリヤム・トゥザニ監督「青いカフタンの仕立て屋」(★★★★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2023年06月24日)

監督マリヤム・トゥザニ 出演 ルブナ・アザバル、サーレフ・バクリ、アイユーブ・ミシウィ

 映画は青い布のアップからはじまる。まっすぐにのばされた布ではなく、ゆったりとしか襞がある。そこにはつややかな部分と、反対に暗い部分がある。それが布なのに立体的なものを感じさせる。
 このアップが特徴的なように、この映画はアップの連続である。私が見ることができるのは、ふつうは見ることができないアップばかりである。アップの周辺には、それにつながるさまざまなものがある。それは個人の肉体のひろがりであり、また、個人を含む社会(世界)のひろがりなのだが、この映画は、まるで「世界」から「個人」を切り離し、個人の世界の複雑さを描くと宣言しているように見える。そして、実際、そうなのだ。「社会」もたしかに描かれるが、あくまで「個人」が中心。個人の内面が中心なのだ。
 とても象徴的なシーンがある。「解釈」がさまざまに分れるに違いない思うシーンがある。ミカンを盛った籠がある。古くなって、皮が白くかびたものがある。白いかびは発生していないが、傷み始めたミカンもある。その籠のなかから、ルブナ・アザバルは傷んでいなさそうな一個を選んで皮をむく。口に含む。おいしいだろうか。苦みがあるかもしれない。しかし、それを食べる。彼女の口のなかで、どんな味がひろがり、それを受け入れるとき、彼女は何を感じるのか。
 これが、すべててである。彼女はひとつのミカンを選ぶように、ひとりの男を選んだ。それは、どんな味か。その味は彼女にふさわしいか。それがどんな味であれ、彼女はそれを受け入れた。
 もうひとつ象徴的なシーンがある。
 ひとはだれでも間違ったことをする。たとえば彼女は、アイユーブ・ミシウィが布を盗んだと勘違いする。自分が間違っていたのに、それを認めることができない。アイユーブ・ミシウィが盗んだのではないとわかったあとも、黙っている。間違っていたことを、隠そうとさえする。しかし、最後には「許して」と誤る。それは、謝罪というよりも、なんだか間違ってしまった自分を受け入れる姿にも見える。相手に誤っているというよりも、自分自身に対して誤っているようにさえ見える。
 間違っていたことを認め、謝罪する。そうしないかぎり、ひとは「個人」にはなれない。
 この「個人」というのは、たぶん、イスラム教の「個人」である。だれかに対してではなく、「神」に対しての「個人」。私はイスラム教徒ではないから、確信があるわけではないのだが、どうもイスラム教の神と人間(個人)の関係は、ほかの神との「契約」とは違う感じがする。「神」に対して「個人」として契約し、神に対し申し開きが立つなら、それは何をしてもいいのだ。
 これを端的にあらわす(表現している)のが、死んでしまったルブナ・アザバル、白い装束で清められたルブナ・アザバルに、サーレフ・バクリは白い装束を脱がし、青いカフタンを着せる。ルブナ・アザバルが結婚式に着たかったと言った、完成したばかりのカフタンである。この青い衣裳は、イスラム教の戒律に背く。しかし、それを承知でサーレフ・バクリは、それを着せる。彼女は戒律を破ったのだ。戒律を破ることで、サーレフ・バクリを受け入れたのだ。
 サーレフ・バクリは彼女が戒律を破ることで彼を受けれいたこと(肯定したこと)をはっきり知っているからこそ、戒律を破って新しい世界へ踏み出す。アイユーブ・ミシウィとふたりで、青いカフタンをまとったルブナ・アザバルの遺体を墓地へ運ぶ。墓地が、その青い衣裳のルブナ・アザバルを受け入れるかどうかはわからないが。
 この映画は、イスラム教ではタブーとされる男の同性愛と、それをみつめる女を描いているのだが、二人の男ではなく、ルブナ・アザバルがそれを破って見せるところに非常に深い意味がある。現実問題として、映画に描かれているように、男たちはすでに戒律を破っている。サーレフ・バクリが何度も、同性愛者があつまる浴場へ出かけるシーンが描かれている。その、一種の裏切りを受け入れることはルブナ・アザバルには苦しみでもあるだろう。しかし、その「苦いもの」を受け入れ、受け入れることを、自分自身に許す。「神」に許しを求める前に、自分で許す。
 ここには、私の想像をはるかに超える「女の自立」というものが描かれている。女の自立と、イスラム教の関係、女と神との、一対一の「契約」が表現されていると思う。「自立」とは、どういうことか、が描かれている。イスラム教は、こうした女の視点から、もう一度強く生まれ変わるかもしれない。イスラム教というと、保守的な女性蔑視の視点が問題視されることがあるが、そこで主張されるイスラム教は「男のイスラム教」であり、「女のイスラム教」ではない。マリヤム・トゥザニ監督の「モロッコ、彼女たちの朝」は気になりながら見逃してしまったのだが、「青いカフタンの仕立て屋」は見に行ってよかった。
 イスラム教をアメリカナイズされた視点で見ていると、いま起きている大事なものを見落としてしまうに違いないと思った。「アップ」されたものをとおして、まず見るべきものは、「アップ」でしかとらえることのできない「個人」である。安易に、「全体」のなかへ「個人」を埋め込んではいけない。

 

 

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