詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘「その人のように」ほか

2023-06-18 23:08:49 | 現代詩講座

長田弘「その人のように」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年06月05日)

 長田弘、寺山修司の詩と受講生の詩を読んだ。

その人のように  長田 弘

川があった。
ことばの川だ。
その水を汲んで、
その人は顔をあらった。

草があった。
ことばの草だ。
その草を刈って、
その人は干し草をつくった。

この世界は、
ことばでできている。
そのことばは、
憂愁でできている。

希望をたやすく語らない。
それがその人の希望の持ち方だ。

木があった。
ことばの木だ。

その木の影のなかに、
その人は静かに立っていた。

 4連目に注目する受講生が多かった。「この世界は、/ことばでできている。と言い切るところが印象的」「憂愁ということばに引きつけられた」「4連目と5連目に強い意味はないのではないのか。レトリックではないだろうか」「最後の2行に、希望を感じる」
 私は質問してみる。
 「4連目は、だれのことばだろうか」
 「その人」
 「では、5連目は?」
 「長田弘」
 「その人、は生きている? 死んでいる?」
 (詩集のタイトルが『死者の贈り物』だったので、あえてこう質問した。)
 「生きている人」「死んでいる人」と分れた。
 ここから、もう一度4連目に戻る。「この世界は、/ことばでできている。」はたしかに印象的だが、「ことば」という表現は、すでに2連目から登場している。川はことばにすることによって川になった。ことばは世界をつくる。その人は「ことば」で世界を把握し、ことばに自分自身を関係づけている。さらに「ことば」を「憂愁」に関係づけている。「憂愁」をふくまない「ことば」はない、ということだろうか。

 1連目は、あらった、2連目は、つくった、最終連は立っていた、と過去形で終わる。しかし4、5連目は、できている、持ち方だ、と過去形ではない。もし、その人が死んでいるのだとしたら、ここは過去形。と、簡単に言うことはできない。死んでいたとしても、そのひとのことを強く思い出すとき、その思いは「過去形」ではなく、現在形として動くだろう。意識(感情)が動くとき、いまと過去の区別はなくなる。
 あるいは。
 もしかすると「その人」は死んではいなくて、過去の長田の姿(生き方)かもしない。自分を振り返っていると読むこともできるだろう。
 「希望をたやすく語らない。/それがその人の希望の持ち方だ。」という2行には、矛盾が含まれているが(自己撞着があるが)、この自己撞着というものが「憂愁」かもしれない。
 「憂愁」は最後の「影」とも重なる。

 詩の構造は、起承転(転)結という形になっている。3連目だけでは言い足りなくて、4連目にもう一度「転」を追加した感じで、それが詩の奥行きをいっそう深めている。そして、それは「批評」になっている。
 だからこそ、いろいろに読むことができる。

かなしみ  寺山修司

私の書く詩のなかには
いつも家がある

だが私は
ほんとは家なき子

私の書く詩のなかには
いつも女がいる

だが私は
ほんとはひとりぼっち

私の書く詩のなかには
小鳥が数羽

だが私は
ほんとは思い出がきらいなのだ

一篇の詩の
内と外とにしめ出されて

私は
だまって海を見ている

 詩を持ち寄った二人は申し合わせたわけではないのだが、この詩は長田の詩と通じるものがある。長田の作品には「ことば」が繰り返された。寺山は「詩」を繰り返している。この「詩」は「ことば」と言い直すことができるかもしれない。
 「後半に登場する小鳥が印象的。何の象徴だろうか」「5連目と6連目の間に飛躍がある。そこがおもしろい」「6連目が気になる」「7連目が気になる。どこにいるのか、意味がわからない。抽象的」「最終行が、あまりにも詩的すぎる」
 長田の詩には、何か論理的(散文的)な印象があるが、寺山の詩は「論理」が見えにくい。
 この詩も起承転結の詩。二連ずつで一組になった起承転結。
 「そう読んだ上で、何か、気づくことある?」
 なかなか返事がなかったが。
 最終連には、それまでつかわれていたことばが、つかわれていない。つかわれていないことばは、ふたつある。ひとつはそれぞれの「組」の最初の行の「なか」。
 「一篇の詩のなかには/内と外とにしめ出されて」では、それこそ意味が通じなくなるから「なか」がない。「内と外とにしめ出されて」ということばを手がかりにすれば「なか」は単なる「内部」ではなく、それこそ「抽象的」なものである。「なか」は「場」であり、「時間」かもしれない。
 「思い出(過去)」が嫌いといった瞬間に、消えてしまうような何かかもしれない。
 もうひとつ「だが」というこばもない。
 最後の連には、どんな否定もなく、ただ存在の「肯定」がある。「きらい」なものがあるかもしれないが、それをふくめて受け入れている「私」という存在を感じる。
 最後の1行は、カルメン・マキが歌った「ときには母のない子のように」を思い出させる。

****

場  青柳俊哉

太陽が一つ 空にある 
枯葉一枚 空をふかれていく 
浜辺に群生していた芒はやかれた 
貝の未知の深さへ 潮水は降りていった 
裸木にとまっていたエメラルドの小鳥 
わたしはそれらの中にある 

たおやかな場 
眼にはみえないところで  
波のようにつづくわたし 
光を超えて 記された文字 
真空の果てにうかぶ
綿毛のような感情

就寝  木谷 明

明るいので外へ出ました
空は水のようでした
ほんとうに こうもりが とんでいる
ほんとうに こうもりが とんでいる
 
足のつかない学校のプールに沈んで
沈んで
見てた
それが時間というのなら
つづきはここまで

 青柳と木谷の作品も、どこか長田、寺山の詩に通じるものがあるかもしれない。いや、ほんとうは、それはないのかもしれないが、作品をつづけて読んでくると、どうしても先に読んだ詩の印象が紛れ込むことになる。
 それは、どういうことか。
 寺山の「詩」は、長田の「ことば」に置き換えられないか、と私は感じたが、青柳と木谷の詩では、そういう「置き換え」が可能なことばはないだろうか。
 もちろん書いた人には、書いたことばが絶対であって、他のことばへの置き換えは不可能なのだが。
 「たおやかな場」と「それが時間というのなら」は、「たおやかな時間」「それが場というのなら」と言い換えられないだろうか。というより、私は、言い換えて読んでみたい衝動にかられるのである。
 青柳の「場」、木谷の「時間」は、客観的な存在というよりも、何か抽象的な「思い」という感じがする。ことばにしないと存在しない「場」と「時間」。長田の詩の「ことばの川」のように。ことばにすることによってはじめて存在するものだからこそ、その「ことばにする」という行為のなかで、交換の可能性のようなものが動くのかもしれない。
 詩とは、すでにそこにあるものを「ことば」をつかって再現するというよりも、「ことば」によってそれを「つくりだす」ものなのだと思う。そこに作者のどんな体験(感情)がふくまれているにしろ、それは「ことば」によって鍛えられ、動き出すものなのである。

 

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇367)Obra, Calo Carratalá

2023-06-18 22:47:53 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá
Manglares región de Casamaces / Senegal. Lápiz graso sobre cartón Kraf. 18 cm x 32 cm. Año 2023

 ¿Cómo podemos describir el tamaño de la obra de Calo? Esta obra mide 18 x 32 cm. Sin embargo, me imagino  un cuadro enorme.
 El no está mirando el espacio delante. Es decir, no está recreando un espacio real. Pinta el mismo tema (o paisaje, o objeto) una y otra vez. Cuando hace esto, el espacio se amplía gradual pero constantemente en su concentración.
 La gente suele concentrarse cuando mira objetos pequeños. Calo es diferente. Al concentrarse en un paisaje grande, entra en el interior de su tamaño y lo agranda desde dentro. Aquí se expresa la "infinitud" del poder mental de su concentración.
 Sus cuadros son incluso más grandes que el espacio de la realidad.

 Caloの作品の大きさを、どう表現すればいいのだろうか。この作品は18×32センチである。しかし、私は、巨大な絵を想像してしまう。
 彼は、目の前にある空間を見つめているのではない。現実の空間を再現しているのではない。何度もおなじ題材を描く。そのとき、彼の集中力のなかで空間が少しずつ、しかし着実に拡大していく。
 ひとは一般に小さいものを見るとき集中する。大きいものを見るときは意識が拡散する。Caloは違う。大きいものに集中することで、その大きさの内部に入り込み、それを内側から拡大する。ここには集中する精神力の「無限大」が表現されている。
 彼の絵は、現実の空間よりもさらに大きいのだ。

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