「翻訳コース」の生徒のつづき。日本語のニュアンス、使い分けを知りたい(論文を書くときの参考にしたい)ということなので、ベルグソンの「笑い」、ボーボワールの「アメリカその日その日」をテキストに、ことばの使い分け、文体の工夫などについて考えた。
たとえば、ベルグソンは「検討」と「研究」をつかいわけている。(訳文は、つかいわけている。)
(1)先覚者たちの考えを徹底的に検討し、
(2)いくつかの研究が発表された
(2)を「いくつかの検討が発表された」とすると、すこし違和感があるかもしれないが、(1)が「先覚者たちの考えを徹底的に研究し」であっても、違和感は少ないだろう。しかし(1)は「検討」と書いている。どう違うのか。
「検討」は「研究」を含むのである。そして、「検討」は、そこに書かれていることの「当否」を検討するのである。「比較検討」ということばがあるが、そこには何かを比較し、選ぶ、という動きがある。
だからこそ、(1)の文章は、「笑いに関する理論のしかるべき批判を打ち立てるべきではないかとも考えた」とつづいていく。「検討し」「批判を打ち立てる」。「批判する」よりももっと強いことばがつかわれている。どの「笑いの理論」が的を射ていて、どの「笑いのす理論」が間違っているか、はっきり識別する。
「検討する」ということばには、そういう「論理展開」が準備されている。それを踏まえてことばが動いているから、「文体」にスピードが出て、強く響いてくる。こういうことも、どのことばを選ぶかということには重要な問題である。
いま、追加で書き加えた文章の中の、
(3)笑いに関する理論
この「理論」は「論理」とどう違うか。「理論」はまとまったひとつの体系。「論理」は考え方(思考の動かし方、ことばの動かし方。だから、たとえば「理論」はアインシュタインの理論(相対性理論)というようなつかい方をするが、アインシュタインの論理、相対性論理とは言わない。これは、セロリーとロジックのような関係。フランス語では、日本語ほど字面(音)が似ていないから混同しないが、日本語学習者は混同する危険性が高い。
(4)意識的に、あるいは暗々裏に、
「暗々裏」は「ひとに知られずに(隠すように)」とか「内々に」とか「秘密に」という意味を持っているが、これは「意識的」にしかできないことである。だから「意識的に、あるいは暗々裏に」というときの「あるいは」は単なる「別の何かの提示」をするときの「または」とは違う。しかし、「または」とも言い換えることもできる。
ここには皮肉というか、批判をこめた「強調」がある。
気づくひとは気づくだろうが、気づかないひとは気づかないだろう。しかし、私は書いている、という意味がふくまれる。
ボーボワール「アメリカその日その日」は、もっとおもしろい例がある。
(5)幾筋かの光の刷毛が、赤や緑の信号灯のきらめく地面をさーっと掃く
(6)あっという間に赤い滑走路照明灯が地べたに叩きつけられる
「地面」と「地べた」。ボーボワールがフランス語でつかいわけているかどうか。フランス語では、どういうことばがつかわれていると思うか、と質問しながら、日本語を考えるのだが。
私の感覚では「地べた」は肉体と深くつながる。地面に倒れた、地べたに倒れた、を比較すると「地べた」の方が肉体の記憶が強く呼び覚まされる。倒れたときの感情が強くよみがえる。
ボーボワールは、私にとっては、論理的であると同時に、いつも「女の肉体」を感じさせる何かがある。それが、たとえば、この「地べた」ということばにある。訳者が、ボーボワールの「文体」(ことばの動くときの調子)を再現しようとしているのだと思う。
(7)祝祭の晩、夜のお祭り、私の祭りだ。
この文章のおもしろさは、おなじ意味のことばが繰り返されること。「晩」と「夜」。「祝祭」と「祭り」。これは、受講生も気づいている。この似たことばの動きのなかで、最後に「私」が浮き上がってくる。
このリズムも、翻訳のときは、とても重要だろう。
「祝祭の晩、晩の祝祭、私の祝祭だ」では、いきいきした感じがぜんぜん伝わってこない。「文体」は、作家の命である。
(8)表情にそう書いてある。
これは、フランス語なら「表情に出ている(あらわれている)」という感じになると思う、と受講生が言った。そして、「なぜ、書いてある、ですか? 描いてある、という漢字ではないのですか?」(書くと描くのつかいわけを、受講生は知っていて、そう質問する。)
「表情にそう書いてある」はさっと読みとばしてしまうが、もっと日本語らしく「翻訳」するならば「顔に書いてある」だろう。訳者は「顔に書いてある」ということばを思い出したけれど、それをそのままつかってしまうと、あまりにも「日本人の感覚」になる。だから、ボーボワールが日本人ではないということを、意識的に、あるいは暗々裏に気づかせるために「表情に」と訳しているのだろう。そして、その「表情」は、たしかにフランス語を「直訳」したものなのだろう。訳者は二宮フサだが、そういう配慮ができる訳者なのだろう。
こんなことを書きながら思うのは。
私は、「思想(意味、内容)」が好きなのではなく、その「結論(要約)?」の細部を支えることばの選択にこそ関心があり、そこにこそ「その人の思想=生き方、肉体」を感じているんだなあ、ということである。
思想の意味は、みんな、おなじ。「どうしたら人間は幸福になれるか」ということを考え、答えをその人なりに出している。ほかの「結論」なんかは、ない。だからこそ、「結論」ではなく、その「過程」で動いていることばの在り方だ重要なのだと思う。「ことばの肉体」ということばをつかうとき、私は「こそばそのものの肉体」と同時に「ことばにまぎれこんだ人間の肉体」を感じている。ボーボワールは、私は日本語でしか読んだことがないが、彼女のことばにはいつも「肉体」がまぎれこんでいる。
追加で書いておく。
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