詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フランソワ・オゾン監督「苦い涙」(★★)

2023-06-14 14:35:45 | 映画

フランソワ・オゾン監督「苦い涙」(★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2023年06月13日)

監督フランソワ・オゾン 出演 ドゥニ・メノーシェ、ハリル・ガルビア、イザベル・アジャーニ

 ライナー・ベルナー・ファスビンダー監督「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」のリメイク?で、原題は「PETER VON CANTO」。タイトルからわかるように、女ではなく男が主役。
 映画ではなく、舞台劇のようなものだが、でもやっぱり映画になっている。映画の特徴は、顔が大写しになること。どんなに近くで見たって、あんなに大きな顔は見ることができない。つまり、顔が「生き生き」していたら、「生き生き」した顔を見ることができれば、それは映画なのだ。
 ドゥニ・メノーシェが、これを、とても大袈裟に演じている。若い男を見た瞬間に、目つきが変わる。他人からどうみられているかを気にしないで、若い男に集中している。なんというか、これは、もう「映画作り」そのものを見ているようなおもしろさがある。
 映画で、私がいちばん不思議に思うのは、カメラがあんなに近づいているのに、まるでカメラがないかのように表情を動かせることである。舞台では、観客は離れている。舞台の上に観客が上がってくるということは基本的にない。しかし、映画は、そのカメラは人格を無視したように近づいてきて、その顔をアップでとらえる。
 このときの、俳優の、というよりも監督の欲望のようなもの(あるいは、これは俳優との確信的「共犯関係」なのかもしれないが)が、ドゥニ・メノーシェがハリル・ガルビアのカメラテストをするシーンに象徴的に描かれている。カメラをとおして、その巨大なアップで独占する。それは、俳優の余力を拡大して伝えるというよりも、自分が見つけた美を独占的に宣伝するようなものなのだ。「これは私のものなのだ」と宣言するのが映画(映画監督)なのだ。彼には、自分の欲望と、自分が見つけ出した「美」以外は認識できない。
 つまり。
 といっていいかどうかわからないが。
 この、「わがまま」が映画であり、この「わがまま」を描くのは、やっぱりフランスがうまい。フランス人の「個人主義」はイギリス人の個人主義と違い、あくまでも「わだまま」の主張である。彼らフランス人は、だれもが「舞台の主役」となって、世界を「わがまま」で動かしていこうとする。
 だからね、というもの変だけれど、笑いださずにはいられないくらいぴったりの歌が主人公に寄り添い、感情を肯定する。「わがまま」を肯定する。「わがまま」に酔っている姿を、ほら、こんなに気持ちがいいという具合に見せつける。
 おなじ演劇(舞台)でも、イギリスの「芝居(シェークスピア)」とは大違い。「ことば」にドラマがあるのではなく、ドラマはあくまで「感情」にある。「ことば」は「音楽」と同じよう、彩り。
 こんなことを書いていいのかどうかわからないが、バレエから「音楽」が消えて、だけをみせられたら何をやっているのか不思議に見えると思う。同じように、フランスの「わがまま(芝居)」から、「ことば」をとってしまうと、何をやっているかわからないだろう。フランスの「わがまま芝居」には「ロミオとジュリエット」や「ハムレット」のような「ドラマ」がない。フランスの「芝居」を知っているわけではないが、私は、この映画を見ながら、そんなことを思うのだ。
 脱線してしまったので、もとに戻ると。
 青年に捨てられた男が、壁に飾った拡大された男の顔(写真)をなぞりながら、男を思い出す。拡大されたもの、しかも自分で拡大したものだけが「真実」なのである。これがフランス人の「わがまま」を端的に象徴している。拡大されないもの、等身大のものは「真実」ではない。これを、ドゥニ・メノーシェが、笑い死にしてしまいそうになるくらい、これでもか、これでもか、と見せつける。若い男が「一日中、いちゃいちゃしていられない」というのに、男が「していられる」と叫ぶところなんかは、傑作である。
 イザベル・アジャーニは、年をとっても加賀まり子と大竹しのぶをあわせたような顔のままだった。かなり、こわい。加賀まり子が? 大竹しのぶが? 私は「混同」する。似ているわけではないが、この三人は実に似ていると思う。本人たちの「実像」を知っているわけではないが。

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする