荒川洋治「真珠」(「午前」21、2022年04月25日発行)
荒川洋治「真珠」を読む。感動した。そして、この感動は、もしかするとロシアがウクライナに侵攻したあとの「ことば」の状況が影響しているかもしれないと思った。たぶん、それ以前なら、こんなに感動しなかったと思う。
「真珠」に、ではロシアのこと、ウクライナのことが書いてあるかというと、そうではない。喫茶店に、平日の四時ごろ、八十歳を過ぎた男女が入ってくる。男が小声で一方的に話している。そういうことが書いてある。こんなふうに。
野球の話では広島の新星・末包、
巨人の岡田とつづき 「使いものにならない」
選手の予想に飛び、根尾、今年もどうかとなり
転じて昔、西武から中日に移ったコーチ某は
現役で二年しか投げなかった、いつだったか
七回裏に逆転満塁ホームランを浴びて、など
異常なこまかさが世の根幹となる
この「異常なこまかさが世の根幹となる」という批評が、とても鋭い。
私は野球を見ないから、知っているのは、いまなら大谷くらいで、荒川が書いている選手など「ほんとう(事実)」がどうかもわからないが、世の中を支えているのは、たしかに荒川が書いているように「こまかな」事実なのだ。
いま、新聞(私は、新聞しか読まない、テレビは見ない)では、ロシアの侵攻、ウクライナの悲劇が連日書かれているが、その報道には「こまかさ」がない。つまり、記者が自分で見た「事実(批評)」がない。だれが発表したかわからないことばが、「伝聞」として書かれている。いま、記事を書いている記者は「戦争」を知らないのだ。その場に言っていないだけではなく、「戦争」について語ったことばを聞いたことがないのだ。あるいは、読んだことがないのだ。たとえば大岡昇平の「レイテ戦記」とか。だから、「戦争」をどう書いていいかわからない。記者自身の「ことば」を書いていない。記者が入手した「ことば」がだれかの操作によって「整理」されているとしても、その「操作」を見抜く力がないから、そのまま書いてしまう。そのことに気づいていない。
荒川が書いている老人の「ことば」は固有名詞が主体で、ほとんど何も書いていないなように見えるが、たとえば「七回裏に逆転満塁ホームランを浴びて」という具体的な事実を彼は見ており、その記憶が「批評」として働いている。無意識に、「コーチ某」をどう見ているかを語っている。そのために、このだれだかわからない老人が、生きている人間としてことばのなかを動いている。
荒川は、こういうこと、自分が見て、それに対して自分なりの批評をする(自分のことばをもつ)ということが、「世の根幹」だと言っている。ここに、荒川の「ことばへの信頼」が明確に書かれている。
たぶん、荒川は、新聞に書かれているロシア侵攻に関する報道、「非個性」の「ことば」を信頼していないだろう、と思う。そう信じさせる「ことばの落ち着き」がこの詩のなかにある。
突然、日本社会党の委員長のことになり
片山哲からだよ、鈴木茂三郎、河上丈太郎、浅沼稲次郎、
さらに佐々木更三(宮城の農村の出だよ)、成田知已とつづけ
江田三郎はね、委員長代理で終わったんだね、ほら
江田五月のお父さんだよ、国民服の北山愛郎もいたな、
まあ 昔から 絵があった
社会党は数の上ではたいしたことはなかったが、愛敬があったね、
この「批評」を支えているのは何か。「体系」である。この詩の登場人物は、彼のなかに「体系」をもっている。「体系」があるから、社会党の委員長の「歴史」がきちんと整っている。そして、「体系」があるからこそ、その「体系」からはみ出して動くものもはっきり見ることができる。「絵がある」「愛敬がある」。こういうことは、社会党の歴史、政治の歴史では、どうでもいいことだろう。しかし、世の中を動かしていくのは、「歴史」から省略されてしまった「絵」とか「愛敬」とかの感覚である。そしてそれもまた非常に強い「根幹」である。ある人間が、別の人間に対して持つ「批評」の「根幹」。譲ることのできない感覚。どうしても動いてしまう感情。人間に信じられるものがあるとしたら、それは「知識」ではなく、こういう自然な「感情」だろう。
こういう自然な感情が、ロシア・ウクライナの戦争報道にはない。記者の「実感」がない。記者の「体系(根幹)」から自然に発達し、枝、葉になった「ことば」がない。ただ、受け売りのことば(あるいは、権力者に迎合したことば、というべきか)が暴走しているだけである。
どんなときでも、ことばは「個人的」でなければならない。
荒川は、ふたび、荒川自身の「批評」を書く。
こちらが暗に付け足すとしたら三宅島生まれの浅沼稲次郎が
作家田畑修一郎が三宅島に来たとき、かかわったということぐらいで
この老人の静かな知識は
真珠のように輝くのだ
「知識」が「個人の体系」になるとき、つまり「権力者の体系」ではなく、だれにも属さない「固有の体系」であるとき、それは「無力」である。つまり「無意味」である。しかし、それは「静か」である。それは権力によっておかされるということは絶対にない。そして、ただ「静かに輝く」のである。
いま、ロシア・ウクライナの戦争報道で必要なのは、そういう「固有の視点/個人の体系」から発せられる「固有のことば」である。
プーチンのことばでもなければ、ゼレンスキーのことばでもない、ましてやバイデンや岸田のことば、さらには安倍のことばではない。生きている市民、生きている兵士といっしょになって動いている記者の、「固有のことば」(固有の報道)である。ほんとうに「現場」で動いているのは、それなのだから。
ロシア・ウクライナの戦争につながることを、荒川は、最終連で「ユーゴスラビア連邦共和国が解体して二〇年後のいまも」と、さっと書いている。荒川は、現在のニュースの報道のことばに対する批判を意図して書いたのではないかもしれないが、私は、厳しい批判がこめれらていると思って読んだ。
そして、とても感動した。
今年いちばんの傑作、全体に読むべき詩だと、私は確信している。