詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉「沓掛にて-芥川君のこと-」

2010-03-18 09:26:57 | 志賀直哉
志賀直哉「沓掛にて-芥川君のこと-」(『志賀直哉小説選 三』岩波書店、昭和六十二年五月八日発行)

 志賀直哉は教科書の印象しかない。「好き」という感じはなかったのだが、読みはじめるとおもしろい。ことばは、やはり子どものときは、おもしろさがわからない。文学は大人になってしら読むものなのだ、とあらためて思った。
 「沓掛にて-芥川君のこと-」は芥川が自殺したあとの文章である。いわば「追悼文」ということになるのだが、とてもかわっている。芥川の思い出を書いているには書いているのだが、えっ、追悼文にこんなことを書いてしまうの? というようなことを書いている。「妖婆」について触れたくだり。(旧字、正字はめんどうなので、いま使われている漢字で引用する。をどり文字も適当になおした。)

二人は夏羽織の肩を並べて出掛けたといふのは大変いいが、荒物屋の店にその少女が居るのを見つけ、二人が急にその方へ歩度を早めた描写に夏羽織の裾がまくれる事が書いてあつた。私はこれだけを切り離せば運動の変化が現れ、うまい描写と思ふが、二人の青年が少女へ注意を向けたと同時に読者の頭も其方(そのほう)へ向くから、その時羽織の裾へ注意を呼びもどされると、頭がゴタゴタして愉快でなく、作者の技巧が見えすくやうで面白くないといふやうな事もいつた。

 芥川の小説の、どの部分が気に食わないか--そんなことを、わざわざ書いている。そういうことを芥川に指摘したと書いている。
 こういうことは、私は書かないだろうなあ。追悼文には書かないだろうなあ。でも、志賀は書いている。
 この正直さが、とても気に入った。とてもおもしろいと思った。

 ことばに対して正直なのである。芥川の小説について書きはじめたら、そのことばに対する気持ちを抑制できなくなる。芥川が自殺したか、生きているかということより、文学のことばはどういうものであるべきか、ということばに対する気持ちの方が優先してしまう。
 ひと(他人)に対する配慮よりも、ことばに対して真摯である。うそをつかない。その正直さ--あ、これは美しい。

 志賀のことばは簡潔だが、その簡潔さは、うそを削ぎ落としてたどりついた簡潔さ、正直がたどりついた簡潔さなのだと、いまごろになって気がついた。




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