中井久夫訳カヴァフィスを読む(27)
「テュアナの彫刻家」は4人のローマの軍人を彫っている。その4人とギリシャの関係はローマとヘレニズムを融和しようとしたのだが、それができなかった--と中井久夫は注で書いている。
彫刻家はそういう歴史とは少し違うところにいる。彼は自分の仕事に自信をもっている。その仕事が大好きだ。その「大好き」な感じが口調のなかに出ている。
彫刻家には彫る馬の形が見えている。それが楽しい。ないものが見えるということが楽しい。「じゃなきゃ」「だんもな」という親しい友達に語るような口調の中に、喜びがあふれている。
芸術家とはいつでもそこにあらわすべき形を先に見てしまう人間のことかもしれない。その理想にあわせて自分を動かしていくことが楽しい人間なのだ。そして、その理想は逸脱していく。軍人をつくる、馬をつくる、ということを越えて、もっと別なものを見てしまう。つくりたくなる。それは自分自身ではなくなるということでもある。
頼まれてしはじめた仕事だが、仕事をしているうちに、彫刻家の技量が依頼された作品だけでは物足りなくなって、その技量が手に入れることができる最高のものを求めてしまう。
「大好き」というのは、こういうことかもしれない。何かを好きになるとは、こんな具合に余分なことをしてしまうことを言うのだろう。
この最後の連の「私の心が高まって」という表現は非常におもしろいと思う。こころが高揚しないことには「理想」は見えない。また「理想が開いて」というのも、非常に強いことばだ。「理想」はそこに存在するのではない。「理想」そのものが扉を開いて、その扉の向こうにあるものを見せる。「心が高まって」と自覚しているのが、また楽しい。言わずにいられないのだ。その喜びを。
「テュアナの彫刻家」は4人のローマの軍人を彫っている。その4人とギリシャの関係はローマとヘレニズムを融和しようとしたのだが、それができなかった--と中井久夫は注で書いている。
彫刻家はそういう歴史とは少し違うところにいる。彼は自分の仕事に自信をもっている。その仕事が大好きだ。その「大好き」な感じが口調のなかに出ている。
今打ちこんでいるのはポセイドン。
とりわけ海神の馬に凝っている。
ぴったりの形を捜している。
胴体も脚もかろやかじゃなきゃ。
地面を蹴るんじゃなくて
海上をギャロップで駈けるんだものな。
彫刻家には彫る馬の形が見えている。それが楽しい。ないものが見えるということが楽しい。「じゃなきゃ」「だんもな」という親しい友達に語るような口調の中に、喜びがあふれている。
芸術家とはいつでもそこにあらわすべき形を先に見てしまう人間のことかもしれない。その理想にあわせて自分を動かしていくことが楽しい人間なのだ。そして、その理想は逸脱していく。軍人をつくる、馬をつくる、ということを越えて、もっと別なものを見てしまう。つくりたくなる。それは自分自身ではなくなるということでもある。
けれどもお気に入りはこれだ。
いちばん気を入れ手を尽くして作った。
暑い夏の日、私の心が高まって
理想が開いて見えたのだ。
これだ。幻が訪れたのだよ、この青年のヘルメス像が--。
頼まれてしはじめた仕事だが、仕事をしているうちに、彫刻家の技量が依頼された作品だけでは物足りなくなって、その技量が手に入れることができる最高のものを求めてしまう。
「大好き」というのは、こういうことかもしれない。何かを好きになるとは、こんな具合に余分なことをしてしまうことを言うのだろう。
この最後の連の「私の心が高まって」という表現は非常におもしろいと思う。こころが高揚しないことには「理想」は見えない。また「理想が開いて」というのも、非常に強いことばだ。「理想」はそこに存在するのではない。「理想」そのものが扉を開いて、その扉の向こうにあるものを見せる。「心が高まって」と自覚しているのが、また楽しい。言わずにいられないのだ。その喜びを。