詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(81)

2018-09-27 08:14:40 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
81 祝福 ヒポクラテスに ガレノスに

食欲はひたすら貪婪な腹の要求だと 長年信じてきたものだが
ひょっとして無思慮な頭のしわざかと 今頃になって疑っている

 と詩ははじまる。そして、こう転換する。

そうだとしたら 自分と宇宙の関係についての種種考察の場も
頭なんかではなく 腹だったのかもしれない と思えてきた

 食欲は「頭」で感じ、思考は「腹」でおこなう。
 ふたつのことばを、「そうだとしたら」がつないでいる。
 さて、この「そうだとしたら」は、では、どこに属するのか。「考察」だから、「腹」になるのかもしれない。だが、単純に、そうは断定できないように思う。

 「食欲」というとき、「食べ物」と「肉体」がある。それは「食べ物と自分の関係」である。「自分と宇宙の関係」というとき「自分」と「宇宙」がある。「関係」が二つの存在をつないでいることになる。「食べ物と自分」「自分と宇宙」。
 それと同じように「食べ物と自分」「自分と宇宙」というふたつのものを「そうだとしたら」が結び合わせるようにして動いている。片方だけでは「そうだとしたら」は動いていかない。

いまではこの聖なる道を讃えるために 朝目覚めたらまず白湯を呑む
口腔から始まってわが消化器官 という名の思考回路の なんと悦ぶこと
わが八十歳の健やかな一日は 内臓への祝福から始まる

 高橋の詩は「そうだとしたら」をほうりだして、「内臓こそが思考の目抜き通り(回路)」という具合にことばを動かす。毎朝、白湯を飲むことで、内臓を祝福するという具合に日常を描写し、思考回路としての内臓は「悦ぶ」と、ことばを続ける。
 この「悦ぶ」は「思考」か。あるいは「感覚」か。なぜ、高橋は「悦ぶ」ということば(動詞)をつかったか。ここに、もうひとつ問題が生まれてくる。そのことについて、高橋は何も書いていない。書かなくてもいいのかもしれないけれど、ここに高橋の詩のポイント、特徴がある。無意識がある。
 「そうだとしたら」という「関係」を生み出すことばが、この詩を動かしている。「頭」でも「内臓」でもない。「肉体」から独立して、ことばそのものが「肉体」として動いている。「ことばの肉体」がある。「そうだとしたら」は、その「ことばの肉体」があらわれてきた部分である。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




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