中井久夫訳カヴァフィスを読む(86)
「憩いに就く」は男色の詩である。
と、はじまる。そこで肉欲にふける。時間が具体的に描かれているので、つい最近のできごとなのかと思う。「隅だったね。」「いなかったね。」と問いかけるような口語も最近という印象を呼び起こす。親しい人に呼び掛ける口調が、親しい(親密な、つい最近の)時間を引き寄せる。
この行も「七月」という具体的な言及が、いまはせいぜいが八月か九月という印象、どんなに遠くても一年前という印象。ふたりは神の(彫像の)ように、燃えさかった。「神の」というのは、人のことなど無視して(関係がない)という感じで、だろう。最近のことなので激しさがあざやかによみがえる。ところが、
なんと、それは二十六年前のことなのだ。
カヴァフィスにとって「時間」とは「時」と「時」の「間」ではない。「間」はいつでも、存在しない。あるのは、ある一瞬の時、そして別の時。そこに隔たりはなく、かわりに「親密さ」がある。時と時を結びつける、強烈な「主観」がある。
この詩はたまたまカヴァフィスの二十六年を結びつけているが、彼が史実をもとに、誰かを主人公にするときも、詩人は、歴史上の人物と自分を「主観」で結びつけ、「時間」の「間」を取り去って、そこに動いている「主観」を描く。「……だったね」「……だよ」と親しく寄り添って。寄り添うことで、「できごと」を詩の中に、カヴァフィスのことばの中に抱きしめる。抱きしめられた「できごと」は、やっと「憩い」を見出す。ことばになることができないとき、「できごと」は「時間」の「間(魔)」を彷徨う。
「憩いに就く」は男色の詩である。
夜中の一時だったか。
それとも一時半。
酒場の隅だったね。
板仕切りの後ろ、
きみと二人きり。他に人はいなかったね。
と、はじまる。そこで肉欲にふける。時間が具体的に描かれているので、つい最近のできごとなのかと思う。「隅だったね。」「いなかったね。」と問いかけるような口語も最近という印象を呼び起こす。親しい人に呼び掛ける口調が、親しい(親密な、つい最近の)時間を引き寄せる。
胸ははだけて--もともとろくに着ていなかったね、
神のごとき七月の燃えさかる中。
この行も「七月」という具体的な言及が、いまはせいぜいが八月か九月という印象、どんなに遠くても一年前という印象。ふたりは神の(彫像の)ように、燃えさかった。「神の」というのは、人のことなど無視して(関係がない)という感じで、だろう。最近のことなので激しさがあざやかによみがえる。ところが、
大きくはだけた着物と着物の間の
肉の喜び、
肉体はただちにむきだしとなって--
そのまぼろしは二十六年の時間をよぎって
この詩の中で今憩いに就くのだよ。
なんと、それは二十六年前のことなのだ。
カヴァフィスにとって「時間」とは「時」と「時」の「間」ではない。「間」はいつでも、存在しない。あるのは、ある一瞬の時、そして別の時。そこに隔たりはなく、かわりに「親密さ」がある。時と時を結びつける、強烈な「主観」がある。
この詩はたまたまカヴァフィスの二十六年を結びつけているが、彼が史実をもとに、誰かを主人公にするときも、詩人は、歴史上の人物と自分を「主観」で結びつけ、「時間」の「間」を取り去って、そこに動いている「主観」を描く。「……だったね」「……だよ」と親しく寄り添って。寄り添うことで、「できごと」を詩の中に、カヴァフィスのことばの中に抱きしめる。抱きしめられた「できごと」は、やっと「憩い」を見出す。ことばになることができないとき、「できごと」は「時間」の「間(魔)」を彷徨う。