詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(182 )

2011-02-17 11:20:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(182 )

 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。いろいろ刺激的なことばが多い詩である。

意識は過去だ
意識の流れは追憶のせせらぎだ
時の流れは意識の流れだ
進化も退化もしない
変化するだけだ
存在の意識は追憶の意識だ
「現在」は文法学者が発見した
イリユージョンである
「話す人」の位置だ
永遠は時間ではない
時間は人間の意識にすぎない
人間に考えられないものは永遠だ

 断定の連続である。一か所、「「現在」は文法学者が発見した/イリユージョンである」だけが1行の断定ではなく2行でひとつの文章になっている。しかし、「発見した」でやはりいったん切って、それから「イリユージョンである」をつけくわえたもの、「イリユージョンである」はそれ自体で1行と見た方がおもしろいだろう。
 どの行も、それぞれがひとつの文であり、それは先行する文の、それぞれの「言い換え」なのである。意識は、そんなふうに動いていく。
 そして、この意識、時間、永遠をめぐる断定のあとに、一気に笑いが弾ける。

「教養をつければつけるほど
たたなくなる」
艶美なるイムポテンス
それだけ永遠に近づく
それだけ犬から遠ざかる

 「インポテンス」が永遠に近づくことになるのかどうかはわからない。犬から遠ざかるというのはほんとうのような気がする。(私は愛犬家だけれど--だから犬が結果的に永遠から遠いというのはうれしいことではないけれど……。)そして、このほんとうのような気がするというのは、一種の「笑い」の真実だね。インポテンス自体が笑いだけれど。
 そして、笑いながら、「笑い」の真実についても、ちらりと考える。
 笑いとは突然の断絶、突然の接続だね。「永遠」に「インポテンス」をぶっつける。それは瞬間的にはくっつかない。たとえば「鮮やかな薔薇の色」と「永遠」ならぶつけた瞬間にくっつくけれど、「永遠」と「インポテンス」はくっつかない。そのくっつかないという意識が、「永遠」から何かを引き剥がす。その瞬間「真の永遠」が、いままで気がつかなかった「永遠の真実」が見える。くっつかないことが「断絶」を浮かび上がらせ、その「断絶」の「断面」に、いままで気がつかなかった「永遠」がぴったりとくっつく。
 「永遠」が生まれ変わる。
 笑いの瞬間、それは何かが生まれ変わる瞬間なのだ。
 それは新しい真実(新しい永遠)とことばが「接続」する瞬間でもある。


旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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