『えてるにたす』。「音」。
「くちずさんで/ズックの靴を」の音の変化がおもしろい。「く」と「ず」が交錯する。交錯することで、音がかきまぜらる。さらに「ず」「で」という濁音も繰り返されることで、音が豊かになる。
私は、濁音を聞くと「豊かさ」を感じる。「清音」は美しいけれど、「豊か」という感じではない。音の好みは人によって違うから、濁音は濁っているから嫌いという人もいると思うけれど……。何が豊かかというと、これは説明に困るのだけれど、声を出したとき清音は体の外へ出ていくだけなのだが、濁音は体の外へ出ていくと同時に内側にも響いてくる。体の内側に音が残っている。その残っている音が「豊かさ」を感じさせるのである。
その濁音が3行目、
の「ば」に響いてくる。
この行は、西脇独特の「の」を持っているのだが、それ「の」という音は少し濁音の響きに似たところがある。母音「お」の響きが「あ」に比べて内にこもる印象があるからかもしれない。
この「の」の響きだけで、それから数行が動いていく。
「みどりの寺の瓦」の「瓦」は何と読むのだろう。「かわら」だろうか。私は「いらか」と読んでみたい。「い」らか、だと、「い」くとせ、「い」くはる、と頭韻(?)のようにして音がつながる。もちろん「か」わらでも、「か」ぜの、し「が」らみたそ「が」れ、「か」すみと響きあう。「か」の方が「く」ちずさんで、ずっ「く」、「く」つ、で「か」けよう、「く」れと「か行」全体と響きあうかもしれない。--それでも私は「いらか」は読む楽しさを捨てきれない。「みどり」「いくとせ」「しがらみ」「いくはる」「くれいく」ということばの中にある母音「い」と「い」らかが気持ちよく響くからだ。「いたばし」にも「い」があるし……。
こういうことは「意味」から詩を読んでいくときは無視されることなのだが、この意味から無視される部分に私はどうも反応してしまう。それはたぶん「裾の」からつづく「の」の連続による行を読むとき、私が「意味」を考えないということと関係があると思う。
ことばを読むとき、私は、ときどき「意味」をまったく考えない。
「裾の」からはじまる行に、私は「意味」を読みとっていないのだ。この詩のはじまりに「意味」を感じていないのだ。
ズックの靴を履いて、歩いている。そのとき見たものを「意味」を考えず、ただ「音」だけを頼りに並べている。私は、そう思って読んでいる。
ところどころ、ことばがイメージを結晶させる。それは、まあ、ぶらぶら道を歩いているとき、ふと目にするものにすぎない。ここに書かれているのは「意味」ではなく、歩行のリズムだと思う。だから「音」が気になるのである。
前半では次の部分が好きだ。
「この土手のくさむらに聞く」の「聞く」がおかしい。普通は「見る」だろう。「見る」と「聞く」を、西脇は厳密に区別していないのかもしれない。「見る」も「聞く」も「肉体」のなかに入ってしまえば同じである。情報を集めることを「聞く」というのは、そんなに変な飛躍でもない。
まあ、この行の「聞く」はそういうややこしいことよりも、次の行の「スズメノエンドウ」の「スズメ」と強く関係しているのだろうけれど。つまり、「スズメ」の鳴く声を「聞く」ということと関係しているのだろう。西脇は頻繁にことばの行から行への「わたり」を行うが、ここでもそういう「わたり」(越境)が行われていると言える。
深いところで「耳」が動いているひとつの「証拠」になるだろう。
くちずさんで
ズックの靴をはいて出かけよう
「くちずさんで/ズックの靴を」の音の変化がおもしろい。「く」と「ず」が交錯する。交錯することで、音がかきまぜらる。さらに「ず」「で」という濁音も繰り返されることで、音が豊かになる。
私は、濁音を聞くと「豊かさ」を感じる。「清音」は美しいけれど、「豊か」という感じではない。音の好みは人によって違うから、濁音は濁っているから嫌いという人もいると思うけれど……。何が豊かかというと、これは説明に困るのだけれど、声を出したとき清音は体の外へ出ていくだけなのだが、濁音は体の外へ出ていくと同時に内側にも響いてくる。体の内側に音が残っている。その残っている音が「豊かさ」を感じさせるのである。
その濁音が3行目、
いたばしのたおやめの
の「ば」に響いてくる。
この行は、西脇独特の「の」を持っているのだが、それ「の」という音は少し濁音の響きに似たところがある。母音「お」の響きが「あ」に比べて内にこもる印象があるからかもしれない。
この「の」の響きだけで、それから数行が動いていく。
いたばしのたおやめの
裾の
雲の黄金の
みどりの寺の瓦
いくとせの風の
しがらみの
行く春の壺の
暮れ行く
また
かすみはたなびく
「みどりの寺の瓦」の「瓦」は何と読むのだろう。「かわら」だろうか。私は「いらか」と読んでみたい。「い」らか、だと、「い」くとせ、「い」くはる、と頭韻(?)のようにして音がつながる。もちろん「か」わらでも、「か」ぜの、し「が」らみたそ「が」れ、「か」すみと響きあう。「か」の方が「く」ちずさんで、ずっ「く」、「く」つ、で「か」けよう、「く」れと「か行」全体と響きあうかもしれない。--それでも私は「いらか」は読む楽しさを捨てきれない。「みどり」「いくとせ」「しがらみ」「いくはる」「くれいく」ということばの中にある母音「い」と「い」らかが気持ちよく響くからだ。「いたばし」にも「い」があるし……。
こういうことは「意味」から詩を読んでいくときは無視されることなのだが、この意味から無視される部分に私はどうも反応してしまう。それはたぶん「裾の」からつづく「の」の連続による行を読むとき、私が「意味」を考えないということと関係があると思う。
ことばを読むとき、私は、ときどき「意味」をまったく考えない。
「裾の」からはじまる行に、私は「意味」を読みとっていないのだ。この詩のはじまりに「意味」を感じていないのだ。
ズックの靴を履いて、歩いている。そのとき見たものを「意味」を考えず、ただ「音」だけを頼りに並べている。私は、そう思って読んでいる。
ところどころ、ことばがイメージを結晶させる。それは、まあ、ぶらぶら道を歩いているとき、ふと目にするものにすぎない。ここに書かれているのは「意味」ではなく、歩行のリズムだと思う。だから「音」が気になるのである。
前半では次の部分が好きだ。
戸田のまがりすみだのあさせ
白い煙突の影がゆらぐ
この土手のくさむらに聞く
スズメノエンドウや
すいばに水精の
くちべにが残る
すみれはない
女の子に撲滅された
「この土手のくさむらに聞く」の「聞く」がおかしい。普通は「見る」だろう。「見る」と「聞く」を、西脇は厳密に区別していないのかもしれない。「見る」も「聞く」も「肉体」のなかに入ってしまえば同じである。情報を集めることを「聞く」というのは、そんなに変な飛躍でもない。
まあ、この行の「聞く」はそういうややこしいことよりも、次の行の「スズメノエンドウ」の「スズメ」と強く関係しているのだろうけれど。つまり、「スズメ」の鳴く声を「聞く」ということと関係しているのだろう。西脇は頻繁にことばの行から行への「わたり」を行うが、ここでもそういう「わたり」(越境)が行われていると言える。
深いところで「耳」が動いているひとつの「証拠」になるだろう。
西脇順三郎の絵画 | |
西脇 順三郎 | |
恒文社 |