誰も書かなかった西脇順三郎(167 )
『豊饒の女神』のつづき。「最終講義」。
岡井隆が『詩歌の岸辺で』で平田俊子の詩に就いて書いている。平田は最初から最後まで計算されつくした上で書かれたものというよりも漠然とした感覚で書きすすめるタイプではないのか、と推測している。
西脇はどうだろう。私には、西脇も漠然とした感覚で書きすすめるタイプだと思う。漠然とした感覚で書きすすめるだけではなく、書きまちがい(?)というか、書いている途中で気が変わったら、それはそのとき、前に書いたことを書き改めるのではなく、そのまま残して次へ進んでいくタイプではないかと思う。
この書き出しには、特にそういう印象がある。何を書くか--それはまだ明確になっていない。「けやきの木」と「先生の窓」の関係は西脇のなかで決まっているわけではない。「けやきの木」は「先生」の部屋へ行く途中で見たものか。あるいは、「先生」の部屋から窓越しに見えるものか、決まっていない。「決まっていない」というのは変な言い方だが、西脇はどちらの意味と決めてそのことばを書いているのではないということだ。西脇が「体験した事実」と「ことば」は別のものなのである。西脇の「現実」と「ことば」は別のものであり、西脇は「ことば」を優先させて「現実」をつくっているのである。
最初から最後までを計算しつくして詩を作り上げるのではなく、ことばを動かしてみて、その動きにしたがって詩を先行きをまかせる--そういう詩人だと思う。
は、「学校教科書」の「文法」では「先生の窓に梨色のカーテンがかかっている」でいったん終わって、「死の床の上で」は別のことばと1行をつくるべきものだろう。しかし、西脇はそれを1行にしてしまう。なぜか。
これでは1行目と2行目が「対句」になってしまう。「いる」「いる」と脚韻を踏んでしまう。そして、こんな言い方が正しいかどうかわからないが、「対句」になることでことばがことばであることをやめて「現実」になってしまう。「意味」になってしまう。外から先生の窓を見ているのか、あるいは先生の部屋から外を見ているのかわからないが、「見る」ということ、そして、その「見る」が「けやき」と「窓」を結びつけてしまうことから「意味」が生まれてきてしまう。「かれている」が「木」と「窓」に結びつけば、それは「病室」になり「死」が暗示される。そういう窮屈さがどうしてもでてきてしまう。
という2行は、いわばその「死」を踏まえてことばを加速させたものだが、ここからが西脇独特の音感(リズム感)のおもしろさだ。「意味」へぐいと突き進みながら、その「意味」を「無意味」に変えてしまう。
「なければタバコを」には「意味」がない。「意味」に通じるものがあるかもしれないが、この1行は完結していない。「未完」である。あらゆる可能性へ向けて開かれている。「木」「窓」「かれている」「死」という「意味」を破るために、西脇はわざと、そういう不完全な1行を挿入しているのだ。「意味」をつくるのではなく、「意味」を破る--それが西脇の詩であるかぎり、西脇は詩の構造を最初から計算して書くということもできはしない。ことばが「意味」になろうとする--そういう動きにであったら、それを否定する、というのが西脇の詩なのである。
「タバコを/すわないと叫んでみても/やはりあの古いネツケがすいたい」という部分にも不思議な「意味」の破壊がある。タバコをすわないと叫ぶとことと、ネツケがすいたいと思うことの間には、「意味」がない。
--ただし。
私がいう「意味がない」にはひとつ前提がある。「ネツケ」がタバコの銘柄ではない、という前提が必要である。もし「ネツケ」がタバコの銘柄なら、「タバコを/すわないと叫んでみても/やはりあの古いタバコ(ネツケ)がすいたい」と「意味」をつくってしまうからである。すわないと叫んでみたものの、あのタバコだけはすいたい、と「意味」になり、また私たちがふつうになじんでいる「学校教科書」の「文体」になってしまう。
私はタバコを吸ったこがないし、関心もないのでよくわならないが、「ネツケ」をタバコとは思わなかった。
で、何と思ったかというと--「にっけい(ニッキ、シナモン)」である。にっけいの棒。それは「すう」というよりも「しゃぶる」「なめる」ということばのほうがふさわしいのかもしれないが、まあ、タバコのように口にくわえる。そういう口の動きを、わざと「すう」ということばで結びつけている。
「古い」ということばも出てくるが、ここでは西脇は、「現実」から「思い出」(記憶)へと動かすということもしているのだと思う。「現実」(けやき、かれる、先生の窓)が「思い出」(にっけい)によってかき混ぜられ、時間が交錯する。そして、その時間の交錯は、
と「夏」を呼び込む。けやきが「かれる」は、ふつうに考えれば「秋」である。もちろん「葉」ではなく「木」と書いているのだから、それは季節は関係がないかもしれないが、「古いいねつけ」と、その前の不思議な文脈の破壊が時間の構造を解体し、それ以後のことばの自在な時間の往復を呼び込んでいるといえるだろう。
西脇は、いつでも自在なことばの運動だけを優先している--と私には思える。そういう自在な運動というのは、最初から最後までを決めてしまう詩の書き方とはまったく違っている。何か漠然とした書きたいものはあるけれど、それを決めてはいない。書きながら探すということになると思う。
「結論」(意味)を決めていない。だから、西脇の詩はおもしろい。
*
「ネツケ」に関する補足。
私は以前、新潟のことばは「い」と「え」があいまいである、と指摘した。(東北のことばに共通することかもしれない。)NETUKE、NIKKEI、NIKKI。ローマ字で書いてみるとよくわかる。「え」を「い」に変えると「ねつけ」はそのまま「肉桂(ニッキ)」になる。
ここに「方言」(なまり?)を持ち込むことで、西脇の「いま」と「古い時間(古里の時間)」が交錯する。「いま」(東京)と「過去」(新潟)が交錯するとき、そこには幅の広い「時間」と「空間」が広がる。東京-新潟は日本のなかにとどまるが、「いま」と「過去」のあいだの「時間」のうちには西脇は日本を飛び出しヨーロッパにも行っているから、東京-新潟という「広がり」は「時間」を加えることでさらに日本-ヨーロッパという広がりを含むことになる。
ことばは、その領域を自在に駆け回ることになる。その自在さが、冒頭でつくりだされたことになる。
『豊饒の女神』のつづき。「最終講義」。
けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを
すわないと叫んでみても
やはりあの古いネツケがすいたい
岡井隆が『詩歌の岸辺で』で平田俊子の詩に就いて書いている。平田は最初から最後まで計算されつくした上で書かれたものというよりも漠然とした感覚で書きすすめるタイプではないのか、と推測している。
西脇はどうだろう。私には、西脇も漠然とした感覚で書きすすめるタイプだと思う。漠然とした感覚で書きすすめるだけではなく、書きまちがい(?)というか、書いている途中で気が変わったら、それはそのとき、前に書いたことを書き改めるのではなく、そのまま残して次へ進んでいくタイプではないかと思う。
この書き出しには、特にそういう印象がある。何を書くか--それはまだ明確になっていない。「けやきの木」と「先生の窓」の関係は西脇のなかで決まっているわけではない。「けやきの木」は「先生」の部屋へ行く途中で見たものか。あるいは、「先生」の部屋から窓越しに見えるものか、決まっていない。「決まっていない」というのは変な言い方だが、西脇はどちらの意味と決めてそのことばを書いているのではないということだ。西脇が「体験した事実」と「ことば」は別のものなのである。西脇の「現実」と「ことば」は別のものであり、西脇は「ことば」を優先させて「現実」をつくっているのである。
最初から最後までを計算しつくして詩を作り上げるのではなく、ことばを動かしてみて、その動きにしたがって詩を先行きをまかせる--そういう詩人だと思う。
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
は、「学校教科書」の「文法」では「先生の窓に梨色のカーテンがかかっている」でいったん終わって、「死の床の上で」は別のことばと1行をつくるべきものだろう。しかし、西脇はそれを1行にしてしまう。なぜか。
けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている
これでは1行目と2行目が「対句」になってしまう。「いる」「いる」と脚韻を踏んでしまう。そして、こんな言い方が正しいかどうかわからないが、「対句」になることでことばがことばであることをやめて「現実」になってしまう。「意味」になってしまう。外から先生の窓を見ているのか、あるいは先生の部屋から外を見ているのかわからないが、「見る」ということ、そして、その「見る」が「けやき」と「窓」を結びつけてしまうことから「意味」が生まれてきてしまう。「かれている」が「木」と「窓」に結びつけば、それは「病室」になり「死」が暗示される。そういう窮屈さがどうしてもでてきてしまう。
けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
という2行は、いわばその「死」を踏まえてことばを加速させたものだが、ここからが西脇独特の音感(リズム感)のおもしろさだ。「意味」へぐいと突き進みながら、その「意味」を「無意味」に変えてしまう。
けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを
「なければタバコを」には「意味」がない。「意味」に通じるものがあるかもしれないが、この1行は完結していない。「未完」である。あらゆる可能性へ向けて開かれている。「木」「窓」「かれている」「死」という「意味」を破るために、西脇はわざと、そういう不完全な1行を挿入しているのだ。「意味」をつくるのではなく、「意味」を破る--それが西脇の詩であるかぎり、西脇は詩の構造を最初から計算して書くということもできはしない。ことばが「意味」になろうとする--そういう動きにであったら、それを否定する、というのが西脇の詩なのである。
けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを
すわないと叫んでみても
やはりあの古いネツケがすいたい
「タバコを/すわないと叫んでみても/やはりあの古いネツケがすいたい」という部分にも不思議な「意味」の破壊がある。タバコをすわないと叫ぶとことと、ネツケがすいたいと思うことの間には、「意味」がない。
--ただし。
私がいう「意味がない」にはひとつ前提がある。「ネツケ」がタバコの銘柄ではない、という前提が必要である。もし「ネツケ」がタバコの銘柄なら、「タバコを/すわないと叫んでみても/やはりあの古いタバコ(ネツケ)がすいたい」と「意味」をつくってしまうからである。すわないと叫んでみたものの、あのタバコだけはすいたい、と「意味」になり、また私たちがふつうになじんでいる「学校教科書」の「文体」になってしまう。
私はタバコを吸ったこがないし、関心もないのでよくわならないが、「ネツケ」をタバコとは思わなかった。
で、何と思ったかというと--「にっけい(ニッキ、シナモン)」である。にっけいの棒。それは「すう」というよりも「しゃぶる」「なめる」ということばのほうがふさわしいのかもしれないが、まあ、タバコのように口にくわえる。そういう口の動きを、わざと「すう」ということばで結びつけている。
「古い」ということばも出てくるが、ここでは西脇は、「現実」から「思い出」(記憶)へと動かすということもしているのだと思う。「現実」(けやき、かれる、先生の窓)が「思い出」(にっけい)によってかき混ぜられ、時間が交錯する。そして、その時間の交錯は、
まだこの坂をのぼらなければならない
とつぜん夏が背中をすきとおした
と「夏」を呼び込む。けやきが「かれる」は、ふつうに考えれば「秋」である。もちろん「葉」ではなく「木」と書いているのだから、それは季節は関係がないかもしれないが、「古いいねつけ」と、その前の不思議な文脈の破壊が時間の構造を解体し、それ以後のことばの自在な時間の往復を呼び込んでいるといえるだろう。
西脇は、いつでも自在なことばの運動だけを優先している--と私には思える。そういう自在な運動というのは、最初から最後までを決めてしまう詩の書き方とはまったく違っている。何か漠然とした書きたいものはあるけれど、それを決めてはいない。書きながら探すということになると思う。
「結論」(意味)を決めていない。だから、西脇の詩はおもしろい。
*
「ネツケ」に関する補足。
私は以前、新潟のことばは「い」と「え」があいまいである、と指摘した。(東北のことばに共通することかもしれない。)NETUKE、NIKKEI、NIKKI。ローマ字で書いてみるとよくわかる。「え」を「い」に変えると「ねつけ」はそのまま「肉桂(ニッキ)」になる。
ここに「方言」(なまり?)を持ち込むことで、西脇の「いま」と「古い時間(古里の時間)」が交錯する。「いま」(東京)と「過去」(新潟)が交錯するとき、そこには幅の広い「時間」と「空間」が広がる。東京-新潟は日本のなかにとどまるが、「いま」と「過去」のあいだの「時間」のうちには西脇は日本を飛び出しヨーロッパにも行っているから、東京-新潟という「広がり」は「時間」を加えることでさらに日本-ヨーロッパという広がりを含むことになる。
ことばは、その領域を自在に駆け回ることになる。その自在さが、冒頭でつくりだされたことになる。
西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1971年) | |
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