詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

暁方ミセイ「不知覚採取」

2016-02-09 11:56:36 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「不知覚採取」(「現代詩手帖」2016年02月号)

 暁方ミセイを読むと、なんとなく宮沢賢治を思い出す。「不知覚採取」の二連目、

(炎をいくらか知っている
器官にて経験したことがらは
わたしのなかで
ひとつのものとして差し出され
わたしはこれらの感覚や感情のつくりだす映像を
愚かにぼんやり見ているだけだ)

 一方に「炎」という「対象」があり、もう一方に「器官/感覚/感情」という「自己」がある。それが出合い、「対象」そのものではなく「映像(イメージ)」を「つくりだす」。これを、「運動/動詞」として認識している。その「運動/動き」に対する認識の「仕方」が宮沢賢治みたいなのである。
 と、書いても「抽象的」すぎて何も言ったことにならないなあ。私は宮沢賢治の熱心な読者ではないから、書いていることもテキトウなのだが。で、テキトウ、いいかげんを承知で「認識の仕方」について私の「感覚の意見」を書いておくと……。

器官にて経験したことがらは

 この「ことがら」という「響き」、「対象のとらえ方」が宮沢賢治の「認識の仕方」に通い合うように思える。「ことがら」というのは「こと(事)+から(柄)」。「こと」というのと「ことがら」というのは、どう違うか。「意味」はたぶん同じだと思う。この一行が、

器官にて経験したことは

 であっても、「意味」は通じるし、「論理」としても何らかわるところはないと思う。でも、何かが違う。何が違うのか。
 「こと」だけでは抽象的。「ことがら」も抽象的なのだけれど、「から(柄)」がつくと、そこに「模様(柄)」が見え、なんとなく「視覚」を刺戟する。「こと」では何が動いているだけだが、「ことがら」では、その動いている「主語」のようなものが、あるいは補語のようなものが浮き上がってくる。「名詞性」が強くなる。「存在性」と言ってもいいかなあ。
 「こと」というのは「流動的」。でも「ことがら」となると、その「流動」に「もの」がはっきり加わり、まるで激流を大きな石がごつごつと流れていく感じがする。「ことがら」の「がら」という「音」がそれを感じさせる。
 こういうことは、あくまで「感覚の意見」であって、「論理/意味」にはならないのだが、考える出発点、ことばを動かすときの、私の出発点である。何か、ごつごつしている。ごつごつしているけれど、激しく流動している。この「ごつごつ」と「流動」という矛盾(?)したものが、激しい「透明性」を呼び覚ます。そのときの強烈な印象が宮沢賢治に似ている。そこから「感想」を書きはじめることができるかもしれない。でも、むずかしい。

 最初の印象から書き直す。

 私は「不知覚採取」を読んだとき、まず、先に引用した二連目がおもしろいと感じた。そして、もう一度詩を最初から読み直した。そのとき、あ、この二連目は一連目の言い直しなのか、と気づいた。一連目を忘れさせるくらい二連目の「ごつごつした流動」が印象的だったのだ。
 その一連目。

炎 と呼び出し
ただちに発生するもの
闇、
黒い熱、
芯でぺらぺらと動く空気の形、
それから松の大枝の
弾ける空洞、
燃え落ちる火の粉、
失望のときにあげる短い声に
まだ強烈な懇願が混じっている
一瞬は
あのように外気に散らばりながら吸収されて
経過とともに固有のものではなくなる

 「炎」ということばから「知っていること(器官/肉体/視覚/聴覚/触覚が経験した事柄)」を呼び出す。思い起こす。想起する。その「経験」は器官/肉体が複合したさまざまなものから成り立ってい。それはさまざまであるけれど「ひとつのもの」として想起される。「ひとつ」でありうるのは、それが炎という「もの」ではなく、炎という「運動」だからである。「燃える」という「運動」を、「名詞」として対象化すると「炎(火)」であり、その「名詞」をいくつかの「主語」に分節しながら「燃える」という「動詞」で統合することで、「映像」にしている。
 「一瞬は」は「炎(の運動)は」と読み直すと、わかりやすくなる。
 つまり二連目は、一連目を、そんなふうに「自己解説(自己注釈)」しているのである。

 このことをもう一度言い直してみるのもおもしろいけれど、省略。
 抽象的にならずに、つまり「考えたことを書く」のではなく、最初に「感じたこと」にもどって一連目の感想を書き直してみる。
 何に驚いたか。
 「炎」というと「燃える」「火の粉」などを思い浮かべる。輝くもの、明るいものを思い浮かべる。しかし暁方は、そういうものを思い浮かべない。

闇、
黒い熱

 「輝き」や「明るい」とは反対のものからことばを動かしはじめる。こういう、「反」からことばを動かしはじめるのは、「現代詩」のひとつの「定型」だという見方もあるかもしれないが、はっと驚かされる。
 そして、それ以上に興味深いのが、二行目、

ただちに発生するもの

 この一行。「発生する」という「動詞」がとてもおもしろい。
 「炎」ということばで「呼び出す」。そのとき「主語」は「わたし(暁方)」。だが「発生する」の「主語」は「わたし」ではない。「主語」が突然変わる。それも「ひとつ」ではなく「複数の主語」が「発生する」。この「発生する」は「自動詞」であり、「自分で動いていく」。
 「炎」の周辺の、「闇」から「黒い熱」へ、「熱」その「芯」へ、つまり周辺から中心へと動いたあと、今度は中心から周辺へと逆な動きをし、「弾け」「燃え落ちる」。そのたびに「主語」は変わり、「燃える」という「動詞」が複数の「主語」を「炎」へと昇華させる。それはすべて「自動詞」。「わたし(暁方)」の「意志」とは関係がない。「炎」を「統一」するのは、あくまで「炎」の「動詞」。
 なのだが。
 そのとき「呼び出される」のは、「わたし」とは別の「もの/対象」だけではない。その「対象」と具体的に出合った「器官/感覚/感情」というものも、「呼び出される」。そういう「ことがら」を「呼び出し」てしまう。
 何かが燃えつきて落ちる。「わたし(暁方)」の「肉体」のなかで。「失望」「声」「懇願」。そういう「体験」を「呼び出し」てしまうとき、「わたし」は「わたし」ではなく「炎」になる。
 「対象」をみつめ、「対象」を理解するとき(完全に把握するとき)、「わたし」は「対象」そのものになり、「対象」を生きている。「いのち」の統合(統一)が、ある。
 あ、これが、詩だね、と思う。
 「対象」と「自己」、別個なものが出合い、動き、その動きのなかで「いのち」として「統合/統一」してしまう瞬間。矛盾した(相反する)動きは、「対象/自己」という区別、「固有」のものを捨ててることで「統合/統一」され、別なものとして「生まれる/発生する」。
 一連目の最後の二行は、そう語っている。

あのように外気に散らばりながら吸収されて
経過とともに固有のものではなくなる

 「散ら張る」と「吸収される(統一される)」、「固有のものではなくなる」を二連目で「愚かにもぼんやり見ているだけだ」と言い直すのは、それが「わたし(暁方)」の「意志」で動かせるものではないからだ。「わたし(暁方)」の意志とは関係なく、「わたし(暁方)」の「体験」から「発生してきたもの」の「自動詞」としての動きだからである。
 詩は書き手よりも先に動いていく。詩人は、それを追認する。追認し、それことばにするひとを詩人という。

ブルーサンダー
暁方 ミセイ
思潮社

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