詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北爪満喜『MAEBASHI 36.5°Cあたり』

2016-02-10 09:47:03 | 詩集
北爪満喜『MAEBASHI 36.5°Cあたり』(私家版、2015年12月発行)

 北爪満喜『MAEBASHI 36.5°Cあたり』は写真と詩を組み合わせた詩集。詩についての感想だけを書く。
 「かすかな発光」という作品が印象的だ。

詩のなかに 育った町の方言が書かれていた

言葉は目で読まれ
どこか体内よりも深いところで発音されて
聞こえない声になってゆく

 二連目。「目で読まれ」はふつうのこと。それが少しずつ変化してゆく。「目で読まれ」「発音されて」「声になっていく」という「動詞」を中心にみていくと、あたりまえのことなのだが……。

体内よりも深いところ

 これは、どこ? 「体内」というと「内臓/器官」というものを思い浮かべる。「物体/物質」というものを思う。それよりも「深い」ところ。このことばの背景にはたぶん「肉体と精神(感情)」という「二元論」があるのだと思う。「肉体」は「外部(目に見える)」ものとしてあり、「精神」は「内部(目に見えないもの)」としてある。「体内よりも深いところ」とは、その「目に見えない精神」のようなものをさしているのだと思う。「精神」には「感情/記憶/感覚」というようなものも含まれるかもしれない。あるひとは「こころ」と呼び、別のひとは「魂」と呼ぶかもしれない。
 その「精神/こころの動き」は、「肉体の動き」のようには見えない。「物理的」ではない。だから、そこで「発音されて」も、それは「物理的」には「聞こえない」。「聞こえない声」とは「精神/こころが発音した声」、あるいは逆に「精神/こころが聞いた声」かもしれない。
 どっちか。
 北爪は後者を選んでいる。

それは私の声ではなく
聞き覚えのある声だった
それは父の声だった

 この「主語」の変化が、微妙で、とても美しい。
 「それは私の声ではなく」には「精神/こころ」を補って「それは私の精神の声ではなく」と言うのは簡単である。ひとはだれでも思っていることを声にしないことがある。自分の「体内」に声を押しとどめることがあるからである。
 ところが、「父の声」について「精神/こころ」を補うと、ちょっと奇妙になる。もちろんひとは、他人が「こころのなかで言うことば/声」を聞き取ることがある。聞こえないのだけれど、顔の変化、肉体の動きの変化から、あ、いま、このひとはこんなことを思っていると感じることがある。それはそのひとの「精神/こころの声」である。
 しかし、ここで書かれている「父の声」は、そういう「聞こえない声」ではない。

聞き覚えのある声だった

 しっかりと「耳」で聞いた声なのである。そして、それを「耳」はおぼえている。「耳」だけではなく、北爪の「肉体」の全体がおぼえている。「精神/こころ」がおぼえていると言ってもいいのかもしれないが、そう言い換えるのはきっとむりがある。おぼえているのは「抽象的」なもの、たとえば「内容/意味」というような、要約できるものではないからだ。「肉声」を「肉体」がおぼえていて、「肉体」がそのことに対して反応しているのだ。
 北爪は次のように言い直している。

忘れていた方言から
聞こえない声を発して
よみがえる父の感触

 「聞き覚えのある声/聞いたことのある声/肉声」は「聞こえない声/抽象的な声/読んだことば」という最初の現実をもう一度くぐり、その瞬間「声」は「感触」に変わっている。思い出しているのは「ことば/声」という手触りのないものではなく、もっと全体的なもの、「感触」としか言えない肉体の存在である。北爪は父に触れている。存在に触れている。「声」を聞くとき、「肉体」は離れている。触れているときもあるが、離れていても声は聞こえる。しかし「感触」は実際に触らないとつかめない。
 いま北爪が感じているのは、その「感触」。

 「目で読む」から、口(ととりあえず書いておく)で「発音される/発音する」、耳で「聞く/聞こえる」。そういうことが「いま」の体験ではなく「聞き覚え」、つまり「おぼえている」ということを通って、「感触」に変化していく。
 「肉体」全体が動く。「感触」はたぶん、目とか口とか耳という具合には「限定」できない。手で触れた感触だけではない。「肉体」全体が触れ合い、ぶつかり、さらに反発し、またひっぱられるというような幅の広い動きのなかで、「全体」としてつかみとるもの、感じるものだ。
 で、その父というのは、

死の闇に飲まれて十年がすぎても
陽差しのように あの庭で 背筋をのばして歩いている父の
ふとした話し声が 光り けぶる

 もう父はいない。いないけれど、思い出すのだ。思い出すとき、父は「よみがえる」。そのとき、父は「声」ではないし、「感触」でもない。「背筋をのばして歩いている」という、より具体的な存在である。つまり、「生きている」。
 「生きている」は、もちろん、「間違い」である。錯覚である。だから詩は、

かすかな
初背よりもかすかな 反射かもしれない


かき消されたのは 厚い時の壁だった

 という具合に閉じられるのだが、この「事実」よりも、錯覚のなかに動いている「真実」、「陽差しのように あの庭で 背筋をのばして歩いている」という父の動きが感動的だ。
 錯覚のなかで北爪は父になり、あの庭を、光のようにまっすぐに背筋をのばして歩いている。
 「読む」という動詞から少しずつ変化して、北爪が北爪ではなくなる。父になる。そして、父になることが北爪になることでもある。その変化がとてもスムーズで、明確なのに、それを「かすかな」ということばでしか表現するしかないところに、深い悲しみもある。
 何度も読み返してしまった。


飛手の空、透ける街
北爪 満喜
思潮社

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