詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(26)

2014-04-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(26)

 「今は詮なし」は戦争で急襲にあったときの様子を描いたものだろうか。カヴァフィスの詩には固有名詞が多いが、この詩にはその固有名詞がない。ただ状況が書かれているだけである。

だがこれはしまった。前から来ない。
誤報であった。
(それとも聞かずか、聞き間違いか)

 この部分の「声」の書き分け方がおもしろい。括弧に入れずに、そのまま書いても、詩の主人公が思ったことだとわかる。突然のことで、思いが乱れ、状況判断がうまくいかずに困惑していることがわかる。
 括弧に入れたのは、「声」が幾種類もあるということを明確にしたかったためだろう。自分自身を問いただしている。「か」という疑問形の「声」をカヴァフィスは強調している。

天から降ったか地から湧いたか。
こちらに用意がないのを見抜き--暇あらせず--
われらを一掃し去った。

 この最後の部分の単柱(--)ではさんだ暇あらせずもまた別の「声」である。前半の「疑念(自省)」の声とは違い、あとから、あれはこうだったなあと思い返している声である。記号によっても、カヴァフィスは声の違いを書き分けている。
 これはカヴァフィスが書いている詩の主役が「声」であることの証拠になるかもしれない。
 カヴァフィスは美しいイメージとか、新しい思想というものを詩にしたいのではない。人間の声そのものを詩にしたい。声のなかにある人間のドラマ、声のなかで起きている「こと」を書きたいという欲望をもっている。人間のなかにあるいくつもの声が瞬間瞬間にあふれ出て、それがかさなり和音になる。声に違いがあるからこそ、斉唱ではなく、合唱になる。カヴァフィスは、そういう声のおもしろさを書いている。

 中井久夫のカヴァフィスの翻訳は、声とドラマの関係をカヴァフィスが狙っている以上にくっきりと浮かび上がらせているかもしれない。中井は精神科の臨床医だが、その臨床の体験、何人もの患者の声に耳を傾けた体験が反映しているのだろう。中井の耳は複数の声を聞き取り、再現できる耳である。

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