谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(12)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「草木に」の右側は空白のページ(「枯葉の上」の裏側)。詩は、左ページの左端に印刷されている。多くの作品は、同じように「左詰め」で印刷されている。そのため、長い「空白」のあとに、ぽつりと洩らされたことば、という感じがしてくる。
いろいろなことを思う。まず「神が見当たらぬまま」に少し驚く。そうか、「祈る」のは神に祈る、ということか。私は、神について真剣に考えたことがない。祈る、というのも真剣に祈ったことはないような気がする。でも、「神が見当たらぬまま」「祈ってもいいのだろうか」と悩む気持ちは、わかる感じがする。神の存在を信じていないから、なんとなく親近感を覚えるのかもしれない。妙な言い方だが。
親近感を覚えるは、「草木に」祈る、ということにも関係する。私は「草」には何も感じないが、木には不思議な畏怖を感じる。ときどき木に引きつけられ、木に触ると落ち着く。だから神に祈るのではなく、木に祈る、というのはなんとなく、わかる。
でも、何を祈るのだろうか。
あ、これは「祈り」なのかなあ。
「祈り」とは、何なのだろう。辞書(広辞苑)には「祈り」を「祈ること」、「いのる」を「言葉に出して、神仏から幸いを授けられるように願うこと」という具合に書いてあるが、「ただともに生きていたい」とは「神から授けられる幸い」なのかな?
「辞書」通りには、ことばの「意味」は動かない。「辞書」は役だたない。
「多々ともに生きていたい」は、誰かから授けられる幸福というものではないように私には思える。
私には「祈り」というよりも「欲望」のように感じられる。「欲望」を語りかけてもいいかな、ということだろうか。
でも、こう書いた瞬間に、「ただともに生きていたい」は「欲望」と呼んでいいのかな、という気持ちにもなる。
「生きていたい」は究極の願い。夢。理想……。ことばが見つからないが。
どんな思想も「人はどうしたら幸福に生きていけるか」ということにつながる。それにつながらない「思想」はない。そうすると、「ともに生きていきたい」は「思想」ということになる。
人は「思想」を「祈る」のだ。
で、この詩を読んで、そこに「神」を感じないけれど(谷川自身「神が見当たらぬ」と書いているが)、純粋な「思想」を感じる。そして、その「純粋な思想」を「神」であると感じる。
あ、矛盾しているね。「神」を感じないけれど、「純粋な思想」に「神」と感じるというのは。「ともに生きていたい」と思うとき、人は「神」になるのかもしれない。知らずに、自分を超えて自分以外のものになる、と言えばいいのか。
ことばにしようとすると、だんだん変な具合になってしまうが、あ、これ、わかる。そうだなあ、そんなふうに思う瞬間があるなあという気持ちは変わらない。
かわらないのだけれど……。
この最終行は何だろう。とても不思議だ。このあとに、もう一度「祈ってもいいのだろうか」という行が省略されているのだと思うが、なぜ「叶えられぬ」? 不可能なことを「祈る」?
考えるとわからない。
けれど、考えないと、「わかる」。
決して叶えられない。みんながともに生きて、ともに幸せになるというのは叶えられない夢である。だからこそ、それを願うのだ。そうあってほしい、それに近づきたいと思うのだ。
この「願い」をしっかり「肉体」のなかに抱え込むとき、人はやっぱり、人であることを超えて「神」になるのかな? 「神」になれば「神が見当たらぬ」はあたりまえのことになるのかな。
ことばを多く書きすぎてしまった。
何も書かずに、ただ読み返せばいいのかもしれない。そうして、自分のことばを「空白」にして、ここにあることばになってしまえばいいのだろう。谷川の詩なのだけれど、谷川が書いたということも消してしまって。
「草木に」の右側は空白のページ(「枯葉の上」の裏側)。詩は、左ページの左端に印刷されている。多くの作品は、同じように「左詰め」で印刷されている。そのため、長い「空白」のあとに、ぽつりと洩らされたことば、という感じがしてくる。
祈ってもいいだろうか
草木に
神が見当たらぬまま
祈ってもいいだろうか
ただともに生きていたいと
無言の草木に
祈ってもいいのだろうか
今日の陽の光を浴びて
叶えられぬ明日を
いろいろなことを思う。まず「神が見当たらぬまま」に少し驚く。そうか、「祈る」のは神に祈る、ということか。私は、神について真剣に考えたことがない。祈る、というのも真剣に祈ったことはないような気がする。でも、「神が見当たらぬまま」「祈ってもいいのだろうか」と悩む気持ちは、わかる感じがする。神の存在を信じていないから、なんとなく親近感を覚えるのかもしれない。妙な言い方だが。
親近感を覚えるは、「草木に」祈る、ということにも関係する。私は「草」には何も感じないが、木には不思議な畏怖を感じる。ときどき木に引きつけられ、木に触ると落ち着く。だから神に祈るのではなく、木に祈る、というのはなんとなく、わかる。
でも、何を祈るのだろうか。
ただともに生きていたい
あ、これは「祈り」なのかなあ。
「祈り」とは、何なのだろう。辞書(広辞苑)には「祈り」を「祈ること」、「いのる」を「言葉に出して、神仏から幸いを授けられるように願うこと」という具合に書いてあるが、「ただともに生きていたい」とは「神から授けられる幸い」なのかな?
「辞書」通りには、ことばの「意味」は動かない。「辞書」は役だたない。
「多々ともに生きていたい」は、誰かから授けられる幸福というものではないように私には思える。
私には「祈り」というよりも「欲望」のように感じられる。「欲望」を語りかけてもいいかな、ということだろうか。
でも、こう書いた瞬間に、「ただともに生きていたい」は「欲望」と呼んでいいのかな、という気持ちにもなる。
「生きていたい」は究極の願い。夢。理想……。ことばが見つからないが。
どんな思想も「人はどうしたら幸福に生きていけるか」ということにつながる。それにつながらない「思想」はない。そうすると、「ともに生きていきたい」は「思想」ということになる。
人は「思想」を「祈る」のだ。
で、この詩を読んで、そこに「神」を感じないけれど(谷川自身「神が見当たらぬ」と書いているが)、純粋な「思想」を感じる。そして、その「純粋な思想」を「神」であると感じる。
あ、矛盾しているね。「神」を感じないけれど、「純粋な思想」に「神」と感じるというのは。「ともに生きていたい」と思うとき、人は「神」になるのかもしれない。知らずに、自分を超えて自分以外のものになる、と言えばいいのか。
ことばにしようとすると、だんだん変な具合になってしまうが、あ、これ、わかる。そうだなあ、そんなふうに思う瞬間があるなあという気持ちは変わらない。
かわらないのだけれど……。
叶えられぬ明日を
この最終行は何だろう。とても不思議だ。このあとに、もう一度「祈ってもいいのだろうか」という行が省略されているのだと思うが、なぜ「叶えられぬ」? 不可能なことを「祈る」?
考えるとわからない。
けれど、考えないと、「わかる」。
決して叶えられない。みんながともに生きて、ともに幸せになるというのは叶えられない夢である。だからこそ、それを願うのだ。そうあってほしい、それに近づきたいと思うのだ。
この「願い」をしっかり「肉体」のなかに抱え込むとき、人はやっぱり、人であることを超えて「神」になるのかな? 「神」になれば「神が見当たらぬ」はあたりまえのことになるのかな。
ことばを多く書きすぎてしまった。
何も書かずに、ただ読み返せばいいのかもしれない。そうして、自分のことばを「空白」にして、ここにあることばになってしまえばいいのだろう。谷川の詩なのだけれど、谷川が書いたということも消してしまって。
おやすみ神たち | |
クリエーター情報なし | |
ナナロク社 |