詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(208 )

2011-04-15 11:48:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「神々の黄昏」。
 西脇は、一般には漢字で書かれる固有名詞をカタカナで書く。知っているけれど、それに出会うと私は驚く。

六月も半ばをすぎると残忍なものだ
もろもろの神と英雄の影をつたつて
グンマの山の奥で一夜
すごさなければならない

 「グンマ」という表記は、ことばを「音」そのものに還してしまう。関東に住んでいるひとはそんなことはないだろうが、私のように関東から離れて住んでいると、埼玉、群馬、栃木のような内陸のごちゃごちゃとかたまった県はどこがどこかよくわからない。そのせいもあり、「グンマ」という表記は、ただ「音」だけをあらわす。どんな「図(地図)」とも重ならない。「視覚」とはまったく無縁のものとして、そこに浮かび上がってくる。もちろん「グンマ」が「群馬」であり、土地の場所をあらわしていることを知っているが、知っているからこそ、その「グンマ」という音が動くとき、いっそう、「場」(視覚)が消し去られたような印象を持つ。
 それは、そして1行目の、何やら「荒れ地」(エリオット)を思い起こさせることば--そして、ことばの「意味」を消し去る。あらゆることばに「意味」はあるだろうけれど、その意味を破壊して、ただ「音」がそこにある。その「破壊」のよろこびが、「グンマ」のなかにある。
 この「音」による「意味」の破壊は、

ノムーラはアリストテレスの修辞学の
講義を思い起し中途で消えた
クサーノは巴里かどこかへ旅立つた
イトーはサガミガワの上流へ
ロケに出てしまつた

 ひとの名前がただ「音」としてカタカナで書かれるとき、固有名詞は「過去」を失ってしまう。何かが動く--その「破壊」が、ことばの運動を軽くする。
 「意味」は常に破壊されなければならない。「意味」が破壊されるとき、そこに詩が生まれる。つまり、意味以前の、純粋、が噴き出してくる。

でもわれわれが人間の寂しきことを
嘆く瞬間が来た瞬間の連続は
永遠につづくが瞬間は女神にすぎない
太陽が亡びても時間と空間は残る
時間と空間という意識も死と共に
亡びるポポイーだがザマーミヤガレ

 この「ザマーミヤガレ」は、私には「音」そのものにはなりきれていない感じがする。(音楽、を感じることができない。)それでも、なんとか「意味」を破壊したいという西脇の欲望を感じる。
 そして。
 ちょっと不思議なことも思うのである。「ザマーミヤガレ」が単に乱暴の導入というよりも、前に出てくる「サガミガワ」と重なって聞こえる。
 そのせいもあって、「瞬間」とか「永遠」とか、いわば哲学的なことばの連続から、次のように急にことばが方向転換しても、違和感がない。妙になつかしい感じさえしてくるのである。

夢の中でウグイスがないている

 その夢の中は「イトー」が向かった「サガミガワの上流」と重なる。「ザマーミヤガレ」という「音」の力で。
 そこに西脇のことばの「音」のおもしろさがある。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房

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