中井久夫訳カヴァフィスを読む(29) 2014年04月20日(日曜日)
「イオニアの」には不思議な「声」が書かれている。ギリシャ悲劇のコーラスの声をふと連想する。
「われわれ」はコーラス。「きみ」もコーラスの一員である。その「声」はひとりの「主観」、いわゆる主人公の「主観」とは別の、一種の「客観」である。その「場」で、いまり主人公の主観が動いている「いま」という瞬間に発せられる声ではなく、そういうことがあったあと、それを思い返して語られる声である。
そこには一種の欲望がある。われわれは神々の像を壊したが、なお神々はわれわれを愛してくれる、神なのだから……という身勝手な欲望、ほんとうの何かがある。その身勝手が神話の主人公を育てる。主役はいつもコーラスの声をくぐりながら、あらわれては、消えていく。
ほんとうの主役(主語)は、コーラスと主役をつなぐ「欲望」である。このあいまいな何か、固定できない何か、それは次のように書かれる。
「さだかならぬが」、定かでないものが、定かでないことが、天翔けりゆくのではない。「さだかならぬ」という「動詞」が天を翔てゆく。悲劇の主人公でも、コーラスでもなく、主人公とコーラスを結ぶことばの運動が「主語」なのだ。
揺れ動く。特定できない。
カヴァフィスは史実のなかの人物の「声」を独自の音楽で表現するが、その声は特定されているように見えるが、そうではない。何かを否定し、何かを肯定している。矛盾している。
きのう読んだ「アントニウス」では否定の命令形と肯定の命令形が入り乱れていた。「いさぎよく男らしく」ということばが必要なのは、「いさぎよくなく男らしいない」からである。そういう矛盾、矛盾という形でしか存在しえない「さだかならぬ」そのものが動くので、ひとは、そこから自分の引き寄せたいものを引き寄せて考える。
カヴァフィスは、そういう世界へ読者をつれていく。
「イオニアの」には不思議な「声」が書かれている。ギリシャ悲劇のコーラスの声をふと連想する。
われらは神々の像を破壊して
神々を神殿から追放したが、
それで神々が死んだと思ったら大まちがい。
イオニアのくによ、おお神々はなおきみを愛していなさる。
「われわれ」はコーラス。「きみ」もコーラスの一員である。その「声」はひとりの「主観」、いわゆる主人公の「主観」とは別の、一種の「客観」である。その「場」で、いまり主人公の主観が動いている「いま」という瞬間に発せられる声ではなく、そういうことがあったあと、それを思い返して語られる声である。
そこには一種の欲望がある。われわれは神々の像を壊したが、なお神々はわれわれを愛してくれる、神なのだから……という身勝手な欲望、ほんとうの何かがある。その身勝手が神話の主人公を育てる。主役はいつもコーラスの声をくぐりながら、あらわれては、消えていく。
ほんとうの主役(主語)は、コーラスと主役をつなぐ「欲望」である。このあいまいな何か、固定できない何か、それは次のように書かれる。
時にエーテル的な若い姿の
さだかならぬが 迅い翼に
きみの丘々の上を天翔けりゆくではないか。
「さだかならぬが」、定かでないものが、定かでないことが、天翔けりゆくのではない。「さだかならぬ」という「動詞」が天を翔てゆく。悲劇の主人公でも、コーラスでもなく、主人公とコーラスを結ぶことばの運動が「主語」なのだ。
揺れ動く。特定できない。
カヴァフィスは史実のなかの人物の「声」を独自の音楽で表現するが、その声は特定されているように見えるが、そうではない。何かを否定し、何かを肯定している。矛盾している。
きのう読んだ「アントニウス」では否定の命令形と肯定の命令形が入り乱れていた。「いさぎよく男らしく」ということばが必要なのは、「いさぎよくなく男らしいない」からである。そういう矛盾、矛盾という形でしか存在しえない「さだかならぬ」そのものが動くので、ひとは、そこから自分の引き寄せたいものを引き寄せて考える。
カヴァフィスは、そういう世界へ読者をつれていく。