詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

キーツ「多くの詩人が……」ほか

2023-07-16 22:16:13 | 現代詩講座

キーツ「多くの詩人が……」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年07月03日)

 まず、受講生がみんなといっしょに読んでみたいと持ってきた既成詩人の詩を読んだ。

多くの詩人が・・・・  ジョン キーツ

多くの詩人が時代に華をそえている
 そのうち何人かは、僕の楽しい空想の
 糧だったーー地上的なもの、崇高なもの、
どちらであれ、今もその魅力に思いを凝らす。
しばしば、詩を書こうと机に向かうとき、
 それらが群がって僕の心に押し寄せてくる。
 けれど、混乱も乱暴な騒ぎも
引き起こさない。それは心地よい組み鐘(チャイム)なのだ。
夕べが蓄えている無数の音もまた同じ。
 鳥の歌、葉むらのそよぎ、
川のせせらぎ、荘厳な音を響かせる
 大釣鐘。それに認知の距離が奪う
その他無数のものが、乱暴な騒音ではなく
 愉しい音楽を作っている。
           (中村健二訳) 

 池田清子がは八木重吉からキーツに接近した。「八木重吉が好きだったから、キーツを読んでみた」ということ。「僕の楽しい空想」「愉しい音楽」と楽しい/愉しいが繰り返される。「空想が詩になるのか」という感想を持った、という。
 受講生からは「これが詩なのか、驚いた」という声があった。空想的なイメージだが、飛躍がない。だから詩的な感じがしない、という声もあった。音(ことばの響き)に硬いものがある、漢語が多いからそういう印象が生まれるのかもしれない。暗くない、明るいと声も聞かれた。
 「認知の距離が奪う」がわからないという声があった。いくつもの音がある。それは「群がって僕の心に押し寄せてくる」が、その時の音と音との距離がわからない。どの音が近く、どの音が遠いのかわからないということではないか、私は読んだ。そして、そういうとき「混乱」が起きるのかふつうだが、キーツは混乱を感じていない。たとえていえば、それはオーケストラの「和音」のようなものではないだろうか。
 そこには聖堂の鐘のように人工の音もあれば、鳥の歌、川のせせらぎのような自然の音もある。

「旅人かへらず」より  西脇順三郎

2.
窓に
うす明りのつく
人の世の淋しき

26. 
菫は
心の影か
土の淋しさ

33. 
櫟のまがり立つ
うす雲の走る日
野辺を歩くみつごとに
女の足袋の淋しき

39. 
九月の始め
街道の岩片(かけ)から
青いどんぐりのさがる

窓の淋しき
中から人の声がする

人間の話す音の淋しき
「だんな このたびは 
金毘羅詣り
に出かけるてえことだが
これはつまんねーものだ 
がせんべつだ
とってくんねー」

「もはや詩が書けない
詩のないところに詩がある
うつつの断片のみ詩となる
うつつは淋しい
淋しく感ずるが故に我あり
淋しみは存在の根本
淋しみは美の本願なり
美は永劫の象徴」

71. 
柳の葉に
毛きり虫の歩く
夏の淋しき

90. 
渡し場に
しゃがむ女の
淋しき

152.
杉菜を摘む
この里に住めるひとの
淋しき

 杉惠美子が選んできた詩の「2」は俳句として紹介されていたもの、という。佐川和夫の名俳句1000に「窓にうす明りのつく人の世の淋しき」という形で紹介されている。杉は「淋しき」が印象に残った、「淋しき」をとらえてみたい。西脇の「淋しい」は「美しい」「孤独」につながる。「寂しい」と書かない点も印象に残る、と。
 受講生が、西脇の詩としては初期のもの、古い枚けれど、西脇のことばの特徴がある。無を感じさせる、といった。西脇の書く「淋しき」に詩染みを感じる。悲しさを感じる。「淋しき」から悲しさ、ひとりぼっちを感じた。
 「うつつの断片のみ詩となる/うつつは淋しい」という二行に、私は西脇のことばの秘密を感じる。「うつつの断片」、現実のものとものとの確立した関係ではなく、その関係から孤立した「現実の存在」、「関係がない」ということが重要なのだと思う。「関係がない」というのは「意味がない」ということに通じる。「無意味」に接した瞬間に、こころが自由になる。
 「無意味」に、ひとは、どれだけ耐えられるか。
 ひとはどうしても「意味」を求めてしまう。

 受講生の作品。

マダニ  青柳俊哉

桜の梢から わたしの
手のひらへ かすかな痛み 
最後のわたしを たっぷりと
啜って 十重のふくらみ 

水のうえの 梨の花びらへ 
わたしの千の卵たち 揺籃する 
瞬く 焼かれる水中の 
花粉の手に突かれて

スピンする黒子の手に
欺かれて 卵を打擲する
花粉の幼い性(さが) わたしの手の 
熟する 赤の果てへ

 青柳俊哉。「マダニに刺された。血を吸って大きくなった。そのときから私はマダニになる。卵を産み、死ぬが、そのことによって、私が生まれることになる。卵は花粉によってつつかれ、という具合に主体が変化していく詩」。
 受講生から「グロテスクな感じがする。いままでの詩と違って、あまり好きじゃない」という声と「私は好き。虫が好き。わかりやすくはないが、生き方が書かれてる。マダニの変化、主体の変化が詩を書くときの力になっている」という声。「最後の、赤の果てへ、がわからない。説明して」という質問には「最初に無意識的に戻る、循環のイメージ」というやりとりがあった。
 私は「スピンする黒子の手に」の前後の関係をつかみかねたが、二連目の「水中」と関係している、「水のブラウン運動のようなものをイメージした」という説明があった。青柳は「循環」ということばをつかったが、まわること、輪廻がテーマということだろう。

崖の上の野原のすすき野原の  木谷明

崖の野原にある店は通りすがるだけだったけど
なるみちゃんについていったのお財布にだいじだいじに毛虫をいれて
すすき野原にたわわになってる毛虫をそっと手のひらに
モサモサふわふわ
うれしくなって
見せに行ったのおばちゃんに
刺さんのかえ て云ったかも 刺さんよ て言ったかも
うれしいまんまお店を出たよ

朝の会の先生のお話で毛虫を見せる悪いこどもがいます ちがうけど
わたしのことかもしれないし
お店の外のキラキラと うす暗かったお店の中が

そのまんま思い出になった谷底の川の土手から大根ぬいて
このまんまいいんよ
かじるから かじったら
おいしいね おいしいね なるみちゃん、
おいしいね

 自分で書いた詩であるけれど、他人が書いたと想定して「感想」を言うならば。そういう設定でこの日の講座を始めたのだけれど、そのときの木谷明のことば。「お店の外のキラキラと うす暗かったお店の中が//そのまんま思い出になった谷底の川の土手から大根ぬいて」という二行が好き。
 工藤直子(この漢字でいいのか、確認をするのを忘れた)みたい、思い出して楽しい、という声。タイトルがおしゃれ。音(調子)がやわらかくて、意味はわからないけれど、心地よい。博多弁が楽しい、という声。最後の連が好きだけれど、「毛虫」や「マダニ」はどうしても苦手、という声も。
 私も毛虫の類は皮膚が激しく反応するので、苦手である。詩の講座では、とくにテーマを決めるわけではないのだが、持ち寄る詩に何か共通するものがあるのが不思議だ。
 木谷の詩に共通することだが、受講生が指摘しているように、音がおもしろい。「意味」が散文のように完結しない「文体」も効果的だ。音の響きを自由に解放している。音を楽しんでいる。受講生が指摘したように、タイトルは「の」の繰り返しがおもしろいし、「朝の会の先生のお話で毛虫を見せる悪いこどもがいます ちがうけど/わたしのことかもしれないし」の「ちがうけど」という主張のリズム、意味をつなぎながら転換する変化がとてもおもしろい。

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野沢啓「大岡信、ことばのエロス」

2023-07-15 15:17:00 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「大岡信、ことばのエロス」(「イリプスⅢ」、2023年07月10日発行)

 野沢啓「大岡信、ことばのエロス--言語隠喩論のフィールドワーク」を、野沢は、こう要約している。

大岡信の詩の魅力について、とくにその言語のエロス性について言語暗喩論的に論じてみた。

 しかし、大岡の書いている詩の、どの部分がエロスなのか、それがよくわからない。「翼あれ 風 おおわが歌」という詩の一部を引いて、

(大岡は)実際あったことかもしれない生の断片を詩の思想に変えることができる(略)。事実や事件をことばに置き換えるのではなく、ことばのなかでひとつの生を開き、まっさらなことばを新たに生み落とすことができる(略)。

 と書いている。たぶん「ことばのなかでひとつの生を開き、まっさらなことばを新たに生み落とす」がポイントなのだが、どのことばが「まっさらなことば」なのか具体的に示していないので、私には何が書いてあるのか理解できない。野沢が引用した行全部が「まっさらなことば」なのか。
 何度繰り返し読んでみても「まっさらなことば」というよりも、全部、私の知っていることばである。
 もし「まっさらな」もの(いままで存在しなかったもの)があるとしたら、それは「ことば」ではなく「ことば」の組み合わせである。
 これに関してだろうと思うけれど、大岡は、こう書いている。野沢は、次のことばを引用している。大岡自身の詩の立場を書いたものである。

詩というものを、感受性自体の最も厳密な自己表現として、つまり感受性そのもののてにをはのごときものとして自立させるということ、これがいわゆる一九五〇年代の詩人たちの担ったひとつの歴史的役割だといえるだろう。 (注、てにをは、には傍点がある)

 感受性の「文章構造(文体)」を自立させる、ということか。このことばには、荒地派(具体的には鮎川信夫か)への批判を含んでいるのだが、その荒地派を大岡は、では、どうとらえていたのか。野沢は、次の文章を引用している。

(荒地派の仕事は)語の組合わせによる言葉の秩序、つまり意味の秩序の新しいあり方を提示したということであり、別の言葉で言えば言葉のパタンを変えたということである。
 これを参考にすれば、大岡の主張は(大岡がめざしたのは)

語の組合わせによる言葉の秩序、つまり「感受性」の秩序の新しいあり方を提示したということであり、別の言葉で言えば言葉のパタンを変えたということである。

 「言葉の秩序」は日本語の場合「助詞(てにをは)」によるところが大きい。助詞によって主語、目的語が明確になると同時に「動詞」が限定される。つまり「助詞+動詞」には一定の決まり(文型/文体)が存在する。これは英語などが「動詞+前置詞」によってことばの秩序ができるのに似ている。
 大岡は、「意味」ではなく、「感受性」を中心にして、ことばを新しくしようとした、新しい感受性のあり方を示そうとしたということだろう。(私は、そう理解している。)「意味」に拘束されたくなかった。感受性を解放したかった。そのための「文体」を模索したということだろう。
 「新しくなる」のは「ことば」ではなく、「文体」である。それは「新しいことば」を「生み出す/産み出す」というよりも、いままのことばのつかい方を変更し、「新しいいのち」を吹き込むということであり、それは「ことば」というよりも「文体」そのものに「新しいいのち」を吹き込むという方がいいかもしれない。私は、そう思う。「てにをは」は「てにをは」のままである。しかし、その「てにをは」によって生まれる、ことばの「組合わせ(組み合わせ)」「秩序」「パタン」が変わる。「パタン(文体/文型)」が変わることで、いままで表現が難しかった「感受性のあり方」が表現できるようになる。その結果として、いままでつかっていたことばが「新しい感受性をあらわすことば」として見直される。「新しさ」の発見である。「新しいことば」の発見ではなく、ことばのなかに「新しさ」を発見する。組み合わせの「新しさ」が、「感受性」をも「新しく」する。
 野沢は、こう書いている。

大岡は敗戦によってゼロと化したかのような日本語にみずからの世代的感受性をたよりに、そこに「てにをは」の知にもとづく言語の振舞いの可能性を探ろうとした。大岡信の《感受性のてにをは》とは詩的言語の来たるべき方向性を示す指標だったのである。
                       (注、てにをは、には傍点がある)

 大岡が「敗戦によってゼロと化したかのような日本語」と感じていたかどうか、私にはわからない。だいたい、ことばは敗戦ぐらいで「ゼロ」になどならないだろう。
 それよりもわからないのは、大岡が《感受性のてにをは》ということばで目指した「詩的言語の来たるべき方向性」と、野沢の「言語隠喩論」の関係である。
 最初に戻るが、

大岡信の詩の魅力について、とくにその言語のエロス性について言語隠喩論的に論じてみた。

 と野沢は書いているだが、どの部分で「言語のエロス性」と「言語隠喩論」の関係を、どう書いているのか、それがどうにもわからない。
 野沢が書いている「言語のエロス性」とは、《感受性のてにをは》によって表現された、鮎川信夫とは違う「エロス性」をさしていると思うが、それは何をさしているのか。
 「エロス」に関していえば、「感受性のエロス」もあれば、「意味のエロス」もあるだろう。「論理的エロス」や「音階的エロス」「色彩的エロス」「労働的エロス」もあるかもしれない。「言語のエロス」と言われてもなあ、と私は考え込んでしまう。

 今回の文章はいつもの、博覧強記の「引用」がなく、他人への批判もなく、とても読みやすかったが、やっぱり野沢の「論理」展開がわからない。
 野沢が大岡を、《感受性のてにをは》の文体を確立すること(実現すること)によって、新しい詩の領域を開いたと感じているのだと推測はできるが、いままで書いてきた「言語隠喩論」のどの部分が《感受性のてにをは》とつながっているか、いままで野沢が引用してきた古今東西の哲学者たちのことばと大岡はどうつながっているのか、私には、見当がつかない。

 

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頭と肉体(感覚、あるいは実感)

2023-07-15 10:44:30 | 考える日記

 たとえば、東京の、とても見晴らしのいい高層ホテルに泊まったと仮定する。窓からスカイツリー(の頂点)と金星と北極星が見える。その3点を結ぶ。三角形ができる。その三角形の内角の和は? 簡単に考えてしまうと180度。でも、実際に測るとそうではないね。頭は180度を思い浮かべる。たしかに自分が立っている位置を無視して3点を結ぶ「平面」を想定すれば180度になるかもしれないが、自分の立ち位置がつくりだす「場の歪み」のようなものが影響して180度にならない。
 もっと簡単なわかりやすい例で言い直すと。
 たとえば、東京の、とても見晴らしのいい高層ホテルに泊まったと仮定する。(ごくふつうのホテルでもいいし、自分の部屋でもいいのだが。)天井と壁の三面がつくりだす天井のコーナー。それぞれの面のコーナーは90度。三つ重なれば、それは270度。でも、ベッドに寝転んで(あるいは椅子に座って)、その三面のつくりだす角度を見ると、なんと270度ではない。どの角も90度を超えている。(視覚の問題。)さらに、それを紙に描いて見ると(平面上に展開してしまうと)、その合計は360度になる。
 なぜ、どうして? 「立体だから」(空間だから)と言えばそれまでだが、立体だから(空間だから)を、それではわかるように数学的に説明できるか。三角形の内角の輪は180度、立方体のひとつの隅の角度の合計は270度のように説明できるか。まあ、証明できる人もいるだろう。でも、ふつうは、できない。
 そういうことは、「日常」にはたくさんある。
 きのう「神は死んだ」という日本語について書いたが、「無意識」が修正する「正しさ」のようなものが、どこかにあって、それは「正しい」と同時に「まちがい」でもある。それが「世の中」を動かすことがある。
 私は日本語を教える一方、スペイン語を勉強している。その教室で「わいろ」についての「ディベート」というと大袈裟だが、考えていることをスペイン語で話さなければならないことになった。その前に「政治」の話、「国際関係」、日本の「組織」の話をしていたので、私は、ふと田中角栄のことを思い出した。
 田中角栄の失脚の引き金は、立花隆が「金脈」を告発したことにあるが、問題は、そんなに簡単ではない。その前に、ベトナム戦争があり、アメリカは日本に自衛隊の派遣を要請した。角栄は、憲法9条を盾に拒否した。(韓国は派兵している。)怒ったアメリカは、角栄を追放することを決めた。(首相を交代させることを画策した。)それがどんなふうに実行されたか、それは知らないが、ともかく角栄は逮捕され、失墜した。これを見た政治家は、アメリカに逆らえば失墜するということを「頭」ではなく「肉体」で感じた。そして、それは多くのジャーナリズムのトップにも感染した。ここから、ずるずると「論調」はアメリカべったりになっていった。
 「頭」では、自分がアメリカによって、いまある地位からひきずり降ろされるということは起きないとはわかっていても、もしかしたらという「不安」が、肉他のどこかに残ってしまう。それは、人間をじわじわと蝕んでいく。いろいろなトップだけではなく、トップの姿勢は、その下で働く人にも。
 あ、少し脱線したか。あるいは、非常に脱線したか。
 私は、角栄に起きたのと同じこと(あるいは、それに近い圧力)が、世界中で動いていないか、疑問に感じている。それは何も、「中立」であることをやめて、NATOに加わわろうとするいくつかの国のことだけではなく、ロシアそのものにおいても。プーチンは、アメリカがプーチンをひきずり降ろそうとしているという「動き」ではないのか。それに対抗する形でウクライに侵攻した、ということもあるのではないだろうか。習近平や金日恩は、そうした「圧力」、同じように「追い込まれようとしている」と感じていないか。
 このアメリカの、すべてをアメリカの思うがままにという「圧力」は、多くの国が(多くのリーダーが)感じているかもしれない。なんとか、アメリカに対抗して、自分の国を守りたい(独自路線を貫きたい)と思っている国は多いだろう。ベネズエラは石油資源を盾にアメリカに抵抗している。南米で多くの左翼系の政権が誕生している。これは、アメリカへの「抵抗」ではないだろうか。この「抵抗」を感じるからこそ、アメリカはヨーロッパやアジアでアメリカの「圧力」を強めようとしているのかもしれない。

 飛躍しすぎる論理かもしれないが。

 アメリカの帝国主義は、たとえば三角形の内角の輪は180度、立方体のひとつの角の角度の輪は270度というのに似ている。それは、現実(立体空間、世界のなか)で「体感すること」とは違うのではないか。「頭」で考えるだけではなく、何か、私たちは「体」で感じるものを抱えて生きている。そして、それは「正しい」ことなのか、「まちがっている」ことなのかわからないが、人間を深いところで動かしている。「肉体」で感じることを、自分に言い聞かせるようにして、自分の見ている世界を受け入れている。
 なぜ、部屋の片隅の、三つの面の角は90度であるはずなのに、90度に見えないのか。一つ一つの角を測れば90度なのに、離れて見た瞬間90度ではなくなるのはなぜなのか。そして、90度ではないのに、それは90度であると判断できるのはなぜなのか。この問題を、いろいろな「世界」にあてはめるようにして考えてみたいと私は思っている。
 別の言い方で言えば。
 どちらが「正しい」か「まちがっている」か、簡単に判断しない。いま、自分は、どちらを選んでいるのか、どの立場で世界を見ているのか、それを忘れないようにしたいと思う。


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「神は死んだ」(日本語を教える)

2023-07-14 17:40:20 | 考える日記

 「死ぬ」という動詞のつかい方は難しい。私の授業のときではないのだが、ある生徒が「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」という文章を書いた。それに対して、「動物の場合は、亡くなったとは言わない」と別の先生が教えた。これは、まあ、正しい。そのあと「死ぬ、死亡、死去、逝去、崩御」というようなヒエラルキー(?)も学んだらしい。
 まあね。
 動物は「死ぬ」。「死亡」は「豪雨で7人死亡」(名前を具体的に出さない、自己や災害のおおきさをあらわす)。「ミラン・クンデラ氏死去」(固有名詞とともにつかわれる。有名人だ)。「エリザベス英女王逝去」(ミラン・クンデラよりも偉い、といっていいかどうかわからないが、肩書がかなり違う限られた人)。「天皇崩御」(天皇クラスにしかつかわない)。
 で、ね。
 これからが問題。日本語検定試験ならそれでいいけれど、ことばは「生きもの」だから簡単に割り切れないのだ。
 たとえば父親。私は「きのう私の父親が亡くなりました」ということばを聞くと、ぞっとする。何か、違う。これは「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」よりも、ぞっとする。「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」には犬に対する愛情が感じられるが、「きのう私の父親が亡くなりました」には愛情が感じられないのだ。「他人行儀」な感じがしてしまうのだ。肉親の場合、とくに憎しみがこもっていない限りは「父が死んだ」がふつうなのではないか。少なくとも、私は、そう言う。
 「死んだ」ということばを発するとき、何か身を切られる思いがある。こころが強く結びついているとき、「死んだ」と言うのではないか。
 これは、こう考えてみるとわかる。
 私はちょっと意地悪な質問を生徒にしてみた。死なない存在が神なのかもしれないが、「もし、神が死んだら、何という?」
 「ことばのヒエラルキー」に従ってだろうが、「神が崩御」という答えが返ってきた。でも、そんな言い方は絶対にしない。「神が死んだ」としか言わないだろう。なぜか。神とは、こころと直接、しっかり結びついた存在だからである。そういう「親密」な関係にある存在に対しては「死亡/死去/逝去/崩御」などとは絶対に言わない。
 ことばの奥には「こころのルール」がある。そして、それは「文法(形式?ルール)」では説明できないのである。「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」には、こころがある。「父が死んだ」にもこころがある。「父が亡くなった」にもこころがある。その「こころ」をどう読み取るかは、これまた、ひとりひとり違うから、まあ、ことばはほんとうにおもしろい。

 「検定試験」の合格が目的なら「犬は死んだ」と覚えないといけない。しかし、いま日常的に、「犬に餌をやる」ではなく「餌をあげる」という人が増えているし、数学の計算でも、「まず、括弧のなかの掛け算をしてあげて、それから括弧の外の数字を足してあげる」(これとこれを先に計算してあげて、それから……)という言い方をする教師もいる。昔なら「あげて」とは言わず「やって」と言っただろう。

 脱線したが。
 「死ぬ」ということばをどうつかうかは、ほんとうに難しい。私は、私が尊敬する人物について書くときは「死んだ」と書いてしまう。ミラン・クンデラが死んだ、という具合に。ミラン・クンデラが死亡した、とは書けないなあ。

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(14)

2023-07-13 20:36:15 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「三月十五日」。たぶん、ギリシャ人なら「三月十五日」と聞いただけで、記憶が騒ぎ出すだろう。私は、それを知らないが、たぶんギリシャ人の誰もが知っているに違いないと感じさせることばで、第一行が始まっている。

わが魂よ、用心だ、栄光と栄華にゃな。

 「栄光と栄華」を持った誰かが殺された(暗殺された)日だろう。そして、その日を誰もが知っていると感じさせるのは、末尾の「にゃな」という口語の口調である。
 砕けた口調には、なんというか、大衆との「共通感覚」がある。大衆(国民)が彼のことを、まるで自分のことのように知っている。これが改まった口調、「栄光と栄華には」だとしても意味は変わらないが、その主人公は何か国民からは遠い。「気持ち」が遠い。
 「にゃな」が主人公を、遠い存在ではなく、自分そばにいる人間にしてしまう。そして、その偉大であるはずの人間が、自分と同じようなことばをつかって自分をいましめ、それでも油断して殺されてしまう。ああ、ほんとうに自分そっくりだ。
 そして、歴史の人物が、自分と同じとわかったとき、ドラマはいっそう強く迫ってくる。そんなことを感じさせる。
 中井久夫は、主人公が言いたいことばも、大衆(国民)というか読者が聞きたいと熱望している声も知っている。そして、それを訳語に定着させる。私は、そこに魅了される。


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Estoy Loco por España(番外篇378)Obra, Miguel González Díaz

2023-07-13 17:43:28 | estoy loco por espana

Obra, Miguel González Díaz
Gorra y Sombrero

 Esta obra de Miguel probablemente está en el jardín de su taller. Es muy bonita. Campos naturales, huertos y montañas que no han sido tomadas por el comercialismo. La escultura situada en un mundo en el que coexisten las personas y la naturaleza. Esta escultura tiene el poder de competir con la naturaleza. Me recuerda el poder de la gente y de mis padres en el pueblo natal. Me recuerda el poder de la tierra y la madera.
 Gorra y Sombrero.
 ¿Son padre e hijo? Van juntos al campo. Van al huerto. Van a las montañas. ¿Qué le enseña un padre a su hijo? Le enseñará lo que significa hacer cosas frente a la naturaleza. Pero entonces el padre no explicará cada cosa con palabras. El padre moverá su cuerpo y le dirá a su hijo que lo haga. O le dirá que lo haga así. El hijo sigue el trabajo de su padre, imitando sus movimientos físicos. A veces, cuando las cosas no van bien, añade su propio movimiento.
 De este modo, el cuerpo sigue viviendo. Y luego está la naturaleza. Hay cosas que cambian y cosas que no cambian. Hay una negociación misteriosa. Esa negociación también es arte. El movimiento del cuerpo, que es invisible cuando toma forma, moviéndose en medio de lo que se está creando. La conexión de la sangre. Las raíces de la vida humana.
 No sé si estoy mirando la escultura o la naturaleza viva de Miguel. ¿Estoy mirando la escultura, el verdor de la montaña o la forma de vivir del padre y del hijo? Pierdo la noción de lo que hago y de lo que miro. En otras palabras, olvido mis "criterios". Creo que el arte es lo único que me hace olvidar mis "criterios". No sé lo que estoy pensando, así que me pongo a pensar de nuevo. Es el arte el que da origen a los pensamientos, a la alegría, a la tristeza.

 Miguelのこの作品は、たぶん、彼のアトリエの庭に置かれている。とてもいい感じだ。商業主義に乗っ取られていない自然の畑、果樹園、それにつづく山。それを背景に、ぽつんと置かれている。人と自然が共存する世界に、ぽつんと置かれた彫刻。この彫刻には、そこにある自然と拮抗する力がある。それは、私に、私の生きてきた山村のひとの力、両親の力を思い出させる。土と木の力を思い出させる。
 Gorra y Sombrero
 それは父と息子だろうか。ふたりでいっしょに畑へ行く。果樹園へ行く。山へ行く。父は子に何を教えるだろう。自然を相手に、物を作るとはどういうことかを教えるに違いない。しかし、そのとき父は子に、ひとつひとつをことばでは説明しないだろう。父は自分の体を動かし、息子にやってみろ、と言う。あるいは、こうやれ、と言う。息子は父の肉体の動きをまねながら、その仕事についていく。ときには、どうしてもうまく行かずに、自分なりの工夫も加える。
 そんなふうにしてつづいていく肉体がある。そして、自然がある。変わるものと、変わらないものがある。不思議な交渉がある。その交渉も、芸術なのだ。つくられていくもののなかに動いている、形になってしまうと見えなくなってしまう肉体の動き。血のつながり。人間の生きているときの、根っこのようなもの。
 彫刻を見ているのか、Miguelの生きている自然を見ているのか、私はわからなくなっている。彫刻を見ているのか、山の緑を見ているのか、それとも父と子の生き方を見ているのか。何をしているのか、何を見ているのかわからなくなる。つまり、自分の「基準」を瞬間的に忘れてしまう。私の「基準」を忘れさせてくれるもの、それが芸術だと思う。何もわからないから、ただ、考え始める。考えを、喜びを、悲しみを産み出してくれるのが芸術だ。

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(14)

2023-07-12 17:34:20 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む


  「イオニア」。「神」ということばが何度か出てくる。その「神」ということばよりも、強烈に「神」を感じさせることばがある。「暁」だ。

八月の暁がきみの番をしている時、

 この「暁」が「神」を感じさせるのは、それにつづくことば「番をしている」ということばの強さのためだ。「番をしている」は「見張っている」。そして、それは「見張っている」よりも強く響くのは、「番をしている(番をする)」が口語というか、肉体を感じさせるからだろう。
 ほかのひとは「番をしている」をどうつかうか知らないが、私はこどものとき、よく親から「火の番をしていてくれ」とか「豚の番をしていてくれ」と言われた。「番をする」には、何か「順番に何かの面倒を見る(世話をする)」というような響きがある。それは「私」を「他人」につなげる。「見張る」にもつながりがあるだろうけれど、私は「番をする」に、それを強く感じる。「火の番をする」とき、私はこどもではなく、父と同じように家を守る、その父につながる感じ。
 この「つながり」の感じが、とてもいい。
 「神」を信じる、信じないはひとそれぞれだが、「神を信じる」とは「神」とつながることだ。そして、それはこの詩の場合(私の引用した一行だけではわからないと思うけれど)、「神」が人を見捨てないというつながりをも生み出す。幾人もの「神」が順番に、「きみの番をしている」。その書かれていないが「幾人もの」というつながりが「暁」の光のなかに広がっている。「暁」は、毎日毎日、あきらめることなく、きみのところへやってくるのだ。それは、けっして終わることのない、永遠だ。


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Estoy Loco por España(番外篇377)Obra, Mohamed Diouri Benyelun

2023-07-12 14:44:11 | estoy loco por espana

Obra, Mohamed Diouri Benyelun

 ¿Dónde está este mar? O tal vez la tierra, pero pinso en el mar. Si el mar de Paco es el mar del norte, el de Mohamed es el mar del sur. Un mar que nunca he visto.
 El sol brilla directamente en lo alto y las olas son rojas, amarillas, azules y negras. Aquí no hay olas blancas que traiga el viento. No hay casquetes de olas. Las olas sólo ondulan. Si naufragara aquí, el barco no se hundiría en el fondo del mar, sino que resplandecería y se elevaría hacia el sol.
 Otra obra podría ser el mar en calma de un atardecer cansado tras una agotadora sesión de ejercicio. O podría ser la tierra, pero quizá para Mohamed el mar es la tierra y la tierra es el mar. El mundo es un lugar donde los colores se afirman.

 これは、どこの海だろう。あるいは大地かもしれないが、私は海を思い浮かべた。Pacoの描く海が北の海だとすれば、Mohamed が描くのは南の海。私が見たことのない海。
 太陽が真上から照らし、波は赤く、黄色く、青く、そして黒く輝く。ここには風を運んでくる白い波などない。波頭などない。波は、ただうねる。ここで難破したら、船は海底に沈まず、燃え上がって、太陽に向かって上昇するだろう。
 もう一枚の絵は、激しい運動のあとの、疲れた夕方の静かな海かもしれない。あるいは、大地かもしれないが、たぶんMohamed にとっては海は大地であり、大地は海なのだろう。世界は色彩が自己主張する場なのだ。

 

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Estoy Loco por España(番外篇376)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-07-10 18:11:13 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo

 En el negro están todos los colores. Pero del mismo modo, puede haber todos los colores en el blanco. El blanco es la luz.
 Cuando la luz se encuentra con algo, la luz se divide en colores. Entonces nace una extraña ligereza y una hermosa alegría. No la tristeza o el dolor que divide, sino la alegría del encuentro. La alegría de convertirse en un color que antes no existía.
 El negro de Jesús tiene un encanto mágico, pero el blanco, que cambia de color instantáneamente con cada colisión, también tiene algo que me atrae. Un blanco similar vive también en el otro cuadro que cuelga en su taller.

 黒のなかにはすべての色がある。だが、同時に白のなかにもすべての色があるのかもしれない。白とは光でもある。
 光が何かに出会うたびに、光は色に分れていく。そこには不思議な軽やかさがある。喜びがある。分裂する悲しみ、苦しみではなく、出会いの喜び。いままで存在しなかった色になれる喜び。
 Jesus の黒には、何か魔法的な魅力があるが、衝突するたびに、瞬時に色を変え続ける白にも、引き込まれるものがある。もう一枚の、アトリエに立てかけられた絵のなかにも、それに通じる白が動いている。

 

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Estoy Loco por España(番外篇375)Obra, Paco Casal

2023-07-09 21:07:49 | estoy loco por espana

Obra, Paco Casal

 Primera pieza; ¿qué esconden los colores de Paco? Hay algo detrás de los colores. Me dice que es algo que no debo mirar. No hay que salir más allá de esa pared, más allá de esa ventana. Los colores que están ahí ahora han luchado contra los muchos colores que intentan ir más allá de la pared y más allá de la ventana. Hay rastros de ello. Pero qué distancia hay hasta esa pared, esa ventana, en esta habitación que parece una pequeña cocina. Los colores que intentaron salir, los colores que se lo impiden, la duración de su lucha es directamente la lejanía de la distancia.


 En cambio, los colores de la otra obra, que nos recuerdan un rincón del bosque, me hacen preguntarme de dónde han salido. Los colores se dispersan en el aire sin tomar forma. ¿Se trata del paisaje exterior de la habitación?  Una vez que se sale de la habitación, todos los colores se dispersan como en la segunda obra y dejan de ser colores uniformes. ¿Se convierte en algo que existe como una memoria de colores?

 一枚目の作品。Pacoの色は何を隠しているのだろう。色の向こうに何かある。それは見てはいけないものだと語っている。あの壁の向こう、窓の向こうには出てはならない。壁の向こう、窓の向こうへ行こうとするいくつもの色と、いまそこにある色は闘ってきた。その痕跡が残っている。しかし、この小さな台所のようにも見えるこの部屋の、その壁、その窓までの距離は何と遠いことだろう。外へ出ようとした色、それを防いででいる色、その闘いの時間の長さが、そのまま距離の遠さになっている。
 一方、もう一枚の森の一角を思わせる作品の色は、いったいどこからあらわれてきたのだろうと感じさせる。色が形にならないまま空気のなかに散らばっている。それはある部屋の外の風景なのか。この府屋から出てしまうと、すべての色は、2枚目の作品のように散らばってしまい、色でさえなくなる。色の記憶として存在するものになってしまうのか。

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Estoy Loco por España(番外篇374)Obra, Joaquín Llorens

2023-07-07 11:11:36 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens
Técnica  Hierro macizo. 95 x 32 x 22 S.M N. 5

  "Amery en Lluvia", un poema de Taro Naka. Comienza así: "Lluvia piano está jugando chabai picobov pusuvuki vibi". Escondido entre la onomatopeya está "Tchaikovsky"; me acordé de este cambio de sonido mientras miraba la obra de Joaquin. 
 Los sonidos salen de esta obra, que parece una combinación de forma C. Se derrama desde el cielo como la lluvia. Son los sonidos de lluvia. Pero al mismo tiempo, el sonido de la lluvia que toca la tierra se eleva hacia el cielo. Los dos movimientos se unen en una sola obra, y se extienden acordes que antes no existían. Se extiende no sólo arriba y abajo, sino también a izquierda y derecha.
 Hoy, 7 de julio, es Tanabata festival en Japón. Una vez al año, las estrellas Tejedora (estrella mujer) y Cazdor (estrella hombre) se encuentran en el cielo. Hoy llueve, así que no podremos ver ese espectáculo celeste. En su lugar, escucharé música de lluvia mientras veo esta obra de Joaquin.

 那珂太郎の詩「アメリイの雨」。「雨のピアノが奏でるチヤバイピコボフプスブスブキビイビ」と始まる。オノマトペのなかに「チャイコフスキー」が隠れている。Joaquin の作品を見ながら、この音の変化を思い出した。この作品の、Cを組み合わせたような形からは、音があふれてくる。それは、雨のように天からこぼれてくる。しかし、同時に大地に触れた雨の音が天に上っていく。二つの動きが、ひとつの作品のなかで出会い、いままで存在しなかった和音が広がる。それは上下に広がるだけではなく、左右にも広がっていく。
 きょう7月7日は日本では「七夕」。年に一度、織り姫星と彦星が天空で出会う。きょうは大雨なので、その天体ショーは見ることができない。かわりに、私は、このJoaquin の作品を見ながら、雨粒のデートの音楽を聴く。

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岩佐なを『たんぽぽ』

2023-07-06 19:19:26 | 詩集

岩佐なを『たんぽぽ』(思潮社、2023年06月30日発行)

 岩佐なをの詩をいつごろからおもしろいと思うようになったのかわからないが、おもしろい。初期のころ(読み始めたころ)は、ひたすら気持ち悪かった。リズムが、ね。
 「再会」は、巻頭の詩。そのなかの、

おりおりに
ぽつぽつと
おむかえするのは嬉しい

 「ぽつぽつと」というのは、私の、あてずっぽうな感覚では、初期のころにはなかった音とリズム。乾いた感じがあって、それが私には「気持ち悪さ」からは遠い。「ぽつぽつと」で落ち着くというか、こころが広がるので、そのあとの「おむかえ」も楽に読むことができる。
 と、言っても。
 そのあとの「嬉しい」は、やっぱり、気持ちが悪い。なんというか、音と、リズムが、ね。
 そういうことを思いながら、そういう行を通り抜けて、これからが、実に楽しい。次の三行は、岩佐の「新しい音」ではないだろうか。(これも、あてずっぽう。昔の詩集を引っ張りだしてきて、比較するつもりはない。申し訳ないが、そんなにていねいに読んでいたら、詩は楽しくなくなってしまう、と思う。もちろん、そこから生まれる楽しさもあるにはあるが。脱線したが。)

ふつうそこの川を渡ってやってくることに
なっているけれど
それは常識といううそで

 うーん、「そこの川」か。三途の川。「その川」ではなく、「そこの川」。いいなあ、「名前」ではなく、「そこ」という場所がはっきりしている。というか、名前ではなく、場を呼び起こす、その「音」。意味的には指し示しているものが同じなのだが、「三途の川」という名前では要約できないものがある。「そこの川」というと、もう何度も何度も「そこ」を見ている感じがする。「あの川」ではない。「この川」でもない。「そこの川」。「その」ではなく、「そこの」と呼ぶことで広がる不思議な「こそばゆさ」。「こそばゆさ」のなかの「こ」が「そこの川」の「こ」につながっている、なんて書くと、これは、まあ、いい加減ないいぐさになってしまうが。
 こういう脱線(逸脱)が詩というものだろう。詩に許されている何かだろう。
 で、いま引用した三行目「それは常識といううそで」もいいなあ。そうか「常識」は「うそ」か。そうだろうなあ。「常識」というのは、何ごとかを「常識」と呼ぶことで、何ごとかを押しつけてくる「権力の匂い」のようなものがあるね。そういう「うさんくささ」を、軽く書き流している。それが、重い。つまり、大切。この「批判」の響きも、岩佐の詩のなかでは新しいものかもしれない。(昔の詩を引っ張りだして、比較検討は、しない。)
 そして、この一行のなかの「それは」の「そ」、「うそ」の「そ」が、なんとなく「ふつうそこの川を渡ってやってくることに」ととてもよく響きあう。「そ」が共通しているから?
 それだけではない。

ふつ「うそ」この川を渡ってやってくることに

 あえて鉤括弧をつけてみたけれど、「うそ」が隠れている。その「うそ」が「うそ」ということばでよみがえっている。ここで「生き返っている」ということばをつかうと、そのまま「再会」になるんだけれどね。
 もっとも、「再会」は先に死んでしまった人が、新しく死んだ人を迎える詩だけれど、そこはやっぱり「常識」の世界ではないから、死んだひとの方が「生きている」。そして(だから?)、こうつづいていく。

庭先の芝生にひろがっていたり
若い枝に実っていたり
出現の仕方は案外わからないもの
どれが尊いということはない
視線をあたたかく放れば
ひとがたにかわり
こちらへ近寄ってきてくれるし

 「常識」に「うそ」があるなら、「うそ」にも「常識」(あるいは、共通感覚?)があり、それが「世界」を解きほぐしたり、現像したりする。
 で、ほら。
 「そこの川」の「そこ」が、ここでは「こちら」ということばと呼応して、「世界」がだんだん「具体的」になる。
 とてもいいなあ。

 このあとの展開、とくに最後は、とても好きなのだけれど、ここではあえて引用しない。紹介しない。買って、読んでください。100ページにとどかず、軽くて、とても読みやすいのも、私は好きだなあ。
 最近の詩集は厚すぎて、私のような年をとった人間には、重い。読み通すのが苦しい。

 

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Estoy Loco por España(番外篇373)Obra, Luciano González Diaz y Miguel González Díaz

2023-07-06 10:36:14 | estoy loco por espana

Estoy Loco por España(番外篇373)Obra, Luciano González Diaz y Miguel González Díaz
2023年07月06日(木曜日)

Obra, Luciano González Diaz y Miguel González Díaz

 En una ocasión, Miguel me hizo una pregunta difícil. ¿En qué se diferencia el trabajo de Luciano del mío? Me quedé perplejo. Despues de unas semanas, volví a leer mis impreciones de sus trabajo. Para mi sorpresa, descubrí que había escrito casi lo mismo sobre la obra de Luciano que sobre la de Miguel. Escribí sobre el papel del "espacio" en sus obras. Veía lo mismo en sus obras.

 ¿Qué veo yo en sus obras hoy? Me parece que la obra de Miguel acabará tomando la forma de la de Luciano y la obra de Luciano acabará tomando la forma de la de Miguel. La obra de Miguel es más dinámica, mientras que la de Luciano puede parecer estática. Sin embargo, ninguno de los dos parece afirmar el "ahora" tal y como es. Quieren cambiar el "ahora". Y es un movimiento que continuará siempre. Hará otro espacio más libre, una posibilidad de vida. Eso es lo que persiguen.

 あるとき、私はMiguelに難しい質問をされた。「Luciano の作品と私の作品はどう違うか」。私は、困惑した。そして、数週間後、それまで彼らの作品について書いたものを読み返してみた。そうすると驚いたことに、Miguelの作品について書いたこととほぼ同じことをLuciano の作品について書いていた。作品のなかにあらわれる「空間」の占める役割について書いていた。私は、二人の作品から同じものを見ていたのである。

 きょう、この二人の作品から、私は何を見るか。私には、Miguelの作品はやがてLuciano の形になるし、Lucianoの作品はやがてMiguelの形になるように思えて仕方がない。一方が他方の「過程」、あるいは一方が他方の「結果」のように見えてしまう。Miguelの作品の方が躍動感がある。Luciano の作品は静止してみ得る。しかし、どちらも「いま」をそのまま肯定しているようには感じられない。「いま」を変えたいと思っている。そして、それは永遠につづく運動である。別の、もっと自由な空間がある、いのちの可能性がある。二人は、それを追求している。

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青柳俊哉「眼」ほか

2023-07-02 09:56:37 | 現代詩講座

 受講生の作品。

眼  青柳俊哉

水面から うかび上がる
しずく 表面をゆれうごく 
黒い栗の林 暗い雲の粘状体 
待ち受ける 水の窪みの母

しずくに映るものが内へ沈み 
ひとつに交わる 栗の林へ
雲がただよう 水中を白が渡る

わたしは うかびつづけることを願う

蝶へ移り変わる少女が わたしを
みている しずくの中の幸福な
白い栗の花へ かげを飛ばす 

わたしは 水の蝶へ重なる

 一連目に不思議な魅力がある。陰鬱といえるイメージだが、その陰鬱を奥でささえる「く」の音の繰り返し。「しずく」「ゆれうごく」と最初は脚韻のような動きをしているが、「黒い」「栗」「暗い」「雲」「窪み」と動く。「水」が、この動きにあわせて「粘状」になる。
 これが、もういちど「しずく」ということばを通って反転(?)する。「しずく」「しずむ」と「し」が動く。あいかわらず「く」のうごきもあるのだが、それを乗り越えて「しろ」と「し」が優勢になる。「白い栗の花」が象徴的だ。
 これは「内」なる変化が、「外(外面)」の変化にまで変わったということだろう。
 そして、その「し」は「わたし」を登場させ、「蝶」を産み出すのだが、この蝶はきっと「白い蝶」だろうと、私は思う。その蝶は、暗い水のなかを飛んでいるかもしれないが、色は「白」であって、「黒」ではないと感じさせる動きが、自然体の音のなかにある。

静かな雨  池田清子

雨の日は 好きよ
静かで

母という人を
初めて知った気がした
父は体が弱かったので
重い荷物はいつも母

お盆に お坊さんが来た時
ほんのわずかなお布施、母、
「いいとよ、バイクでシャーと来て
お経をチャーとあげるだけやけん」

電器屋さんが 修理に来た時
出張費を聞いて
「大戦をくぐりぬけてきた年寄りから
三千円も取るとね」

水仙が大好きだった

兄を最後までかばった
私が傷つけるような言葉をかけた時
ただふすまをしめた

静かな雨の降るときは
思い出す

 この詩のなかで、私は不思議な経験をした。四連目。講座で読んだときには「母」ということばがなかった。それで、私は「いいとよ、バイクでシャーと来て/お経をチャーとあげるだけやけん」ということばを、お坊さんのことばだと思っていた。ところが、詩を朗読した受講生の声を聞いていると、全員が「母の声」として読んでいる。
 あ、そうだったのか。
 そういう活発な声と、書かれていない「兄を最後までかばった」時の声の調子とが作者の内部で響きあっていて、そこから「静か」が誘い出され、雨の日の静かさと母の静かさが重なっているのだろう。
 私は、最初に「静かな」ということばを聞いたために、少ないお布施を無言で(黙って)差し出す母とお坊さんが対比させられ、そのあと、いわば気さくなお坊さんの声に励まされて、電器屋さんとの「声」が引っ張りだされたのだと思ってしまったのだ。
 母も変化している、その変化のなかから、ほんとうの母を知った、と思って読んだのだった。

梅雨終わり  杉惠美子
       
庭隅に
あじさゐの待つメモを見る

こんもりと今を濡れて
控へめに光をとらへ
雷さへも斜めに受けて

梅雨をのみこむ息の中
こぼれ落ちる時と雫

また1年
心をためて待つ時間を

静かに豊かに
持ち続けていたいと

誰がメモしたのだろう

傘は閉じたまま

 この詩を最初に読んだときの印象は、一連目が「俳句」として聞こえてきたことである。「5・7・5」になっている。
 二連目、三連目はは「字余り」もあるのだが、基本的に「5・7」(二連目)、「7・5」(三連目)として聞こえる。なんとなく「あじさい」、あるいは「あじさいの花」ということばを組み込んで、各行を「5・7・5」にかえてみたい欲望にとらわれるのである。
 そういう「こころの動き」を感じていると、「また1年/心をためて待つ時間を」のなかにある「待つ」が見えてくる。もちろんこの「待つ」は一連目の「待つ」としっかり呼応しているのだが。
 最終行の「傘は閉じたまま」は、「は」が効果的。「傘を」でも、外面的な「意味」はかわらないだろうが、「は」の方が強く「内面性」を感じさせる。それが「心をためて」や「メモ」につながる。

福祉 鈴木康太

撃たれた鳥が
落ちていくときに見たものは
水玉の人間たち
屋根はほとんど本だった
さまざまな色の本だった
あなたと食べたフルーツゼリーがおいしかった
地面にぶつかる、そのまえに
ぼくは満たされたい
額から顔がでる
それは、あなたの顔で
声はぼくの喉を切る

 受講生ではなく、受講生がみんなで読むために持ってきた作品。しかし、どことなく受講生の作品の「リズム」と似たところがある。だから、他の受講生は鈴木康太の作品と思わずに読んだ。
 どこが似ているか。
 「あなたと食べたフルーツゼリーがおいしかった」という突然の、破調の一行。また「さまざまな色の本だった」の「色」として本をとらえる見方。
 「額から顔がでる」は、これまでの受講生のことばとは違うが(他の受講生もそう感じたし、持ってきた受講生自身もそう感じているようだったが)、それはそれで「新鮮」な印象があり、受講生の作品と思って読んだ。
 実は。
 私は、この作品については、かなり前(1月17日)にブログで感想を書いている。すっかり忘れていた。(こう書いていたすこし補足しながら、採録する。)

 鈴木康太「福祉」。「撃たれた鳥」の落下を書いている。
(略)
 「額から顔がでる」、それを「見たい」。このときの「見たい」は「体験したい」になる。いいなあ、額が割れて、その裂け目から別の顔が出る。それは作者の「欲望」そのものだ。鳥のように落下して自分にぶつかるとき、鈴木の額から鈴木の顔が出る。それを自分のこととして体験したい。それに気づいて、悲鳴を上げる。
 ここに「矛盾」があるとして、それは対立するものが結合しようとする矛盾だろうか、それとも分離することを欲する矛盾だろうか。
 前後の文脈がないとわかりにくいが、ブログをさかのぼって読んでみてください。名前でもタイトルでも検索できます。

 


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