風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

副読本について思う

2013年10月16日 | 詩吟
まだ昭和の年号の時、詩吟を始めたころは、毎回小さな紙に印刷してくださる一枚の紙面がテキストでした。そして、初めて縮刷本を手にしたのは、初段合格のとき佐藤先生がプレゼントしてくださった時でした。それ以来、縮刷本一冊と鉛筆一本で、練習に臨んでいました。


漢字を目にしながら、先生の吟を聴いて、自分なりの書き込みをして、自分だけのテキストを完成していきました。
だんだんと世の中が豊かになり、テキストも会員が購入するようになり、縮刷本、テキストを自前で持つようになりました。


つい最近になって指導者向けとして副読本ができ、指導に、完璧を期することができまた完璧を要求されるようになりました。
指導者向けと言っても開かれた関吟は指導者ではなくても熱心な人はそれを手にすることができるのです。
副読本を手に、予習をしてくる。あるいは、自学自習をすることができるようになったのです。

音感の良い人、音楽の素養のある人にとっては、ある意味先生要らずということになる。

自学自習をして、完ぺきと自己採点しても、最終的には、親師範に聴いて頂いて、合格と認められてはじめて、その詩を今の実力で終了したことになり、はじめて公の場所で発表することができるのです。
そのことは、あえて言葉にしなくても、会派に属する上においては、それが礼儀であり、当たり前のことだと考えます。



縮刷本あるいはテキストには、書かれていない音程にかかわる細かい指示が副読本ではされていますから、指導するにあたって、正確に指導することができて、とてもありがたいのですが、しかし、「間違わない」にとらわれて、副読本が手放せなくなっているのが、私の現状です。

若いころ、終了した詩吟は、二度とテキストを見る必要がない位覚え叩き込んでいたのが、だんだん、手抜きになってきています。

まさに、吟じ込んでいないと、世間にアピールしてしまったということです。


指導するということは、どういうことなんだろうと、改めて、思い返してしまいます。



副読本に話をもどすと、合宿で副読本の功罪の「功」の部分を大いに享受したのが青葉さんたちでした。

副読本あっての、達成感だったとありがたく思ったのです。

副読本が手元にあれば、ほぼ、間違いなく先輩諸氏の声を聴きながらだから、気持ちよく合吟は出来るのですから。

ん、まてよ、もしかして、縮刷本しかなかったら、彼女らは、臆して吟じられなかったのだろうか?

なかったら、無いで、何とかやり通したのではなかろうか。

幸い、何事も先生に頼らず二人で相談して二日間を乗り越えたのだから、副読本が無ければ無いで、励まし合ってやりおおせたかもしれないという期待もちょっぴりあるのです。

さて、 どうなのでしょうねぇ。

達成感たっぷりの今回の合宿は、大成功だったと言えます。

次の機会があるといいですねぇ。江戸川道場さん、よろしくお願いいたします。










副読本のおかげで、指導者の主宰する教室に参加できなくても詩吟は学べます。
今は、ホームページも整えられ、CDも購入できます。
その気さえあれば、いつでも習得する機会はあります。
ただ、自学自習を良しとするのは、基本をマスターした人に限ると、私は考えます。

夢組は、初心者向けの教室と銘打っています。

初心者には、予習は無用とお伝えしています。
基本のできていない人が勝手に解釈をして練習にいらっしゃると、間違って覚えてしまったものを直すのは、習った時以上の手間と時間を要します。
真っ白の上に、指導された通りに身に着けてほしいと思うのです。
そのようにして習ってもどうしても身につかず、習得するのに時間がかかってしまうことは、ちっとも厭いませんし、仲間たちにも修練の参考になります。

どういう加減か間違って勝手に身についてしまったものを、基本に戻すのは、むなしい作業で、時間をかけるのがもったいないと思ってしまいます。

一人一人に、公平に時間配分をして練習をするを大事とは思っていません。
むしろ、その人に今日必要なことは、今日の内におしえてさしあげたい。
そうではないかってにおこなったことで、有り得ない無駄な作業で時間を取られるのは、お断りなのです。


副読本が一般に手に入ることによる功罪は、ほかにもたくさんありますが、今日はここまで。
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