METで3回ワーグナーの『ワルキューレ』のジークリンデを観たデボラ・ボイトが、「トリスタンとイゾルデ」に登場すると言う記念すべきMETの舞台を、映画「METライブビューイング」で観た。
大嵐で交通が大荒れの中を六本木ヒルズの劇場に出かけたので、残念ながら、第一幕の前奏曲をミスってしまって、ブランゲーネがトリスタンを迎えに行くシーンから観たのだが、しかし、実質4時間近くのワーグナーは正に圧巻であった。
ワーグナー・オペラの舞台は殆ど観ているが、このトリスタンとイゾルデは、まだ、実際の舞台を鑑賞したのは、ウイントガッセンとニルソンのバイロイトを皮切りに、ロンドンで、ウエールズ・ナショナル・オペラとロイヤル・オペラ、それに、先のウルトラウト・マイヤーのベルリン・オペラだけで、あれだけレコードやCDを聴いてワーグナー節が頭にこびりついているのに、鑑賞機会は非常に限られている。
最初に観たワーグナーの孫・ウイーラント・ワーグナーのバイロイトの舞台は、幽かに原色のバックが浮かび上がる殆ど真っ暗で何もない舞台の奥の、全くと言って良いほど動きの止まった空間から、延々と歌手達の歌声とオーケストラのうねるようなコワク的な音楽が迸り続けると言う感じであったが、今まで観た舞台も、これと同じ様に非常に抽象的でデフォルメされたモダンなセットばかりで、ゼフレッリのイタリア・オペラの華麗な舞台とは雲泥の差であった。
昔、我々のプロジェクトで仕事をしていたアーキテクトのサー・マイケル・ホプキンスが、ロイヤル・オペラのワーグナーの舞台セットを設計していたが、彼の自宅のように、パイプと鉄板を張り巡らせた船の内部のような舞台であったような記憶がある。
今回のMETの舞台は、舞台中央奥の一点を支柱にして、舞台正面枠の両側の柱と天井梁に向かって3枚の真っ白な3角形のテントを張ったセットで、これに間接照明を当ててライトの微妙な光の調整によってコンピューターで演出すると言う実に最先端を行くハイテクの世界である。
第一幕では、舞台中央に真っ黒なポールが立っていて、これがメインの帆柱、第二幕は、口絵のような柱状の王と王妃の居室がある程度で、後は、テンポラリーなセットが舞台床から這い上がっては消えて行き、歌手達は、舞台の床に開く開口口から登場してくる、と言った非常にシンプルなセットだが、舞台裏は巨大な工場と見紛うような光景である。
今回の映像で特筆すべきは、スクリーンにマルチ映像が映ることで、本来の映画などでは一場面しか映らないが、舞台の展開によって、スクリーンに同時に複数の画像が映し出されるのである。
例えば、トリスタンがイゾルデに歌いかけている場合、画面の中央上部には舞台の全景が写された画像があり、下の一方には歌っているトリスタン、他方には離れて聞いているイゾルデの表情が夫々クローズアップで映し出されるので、一度に複数の情報が入り、迫力が格段に向上するのみならず臨場感が全く違ってくるのである。
それに、客席に居れば同じ目線で平板な舞台しか楽しめないが、ズーミングやフェイズアウトなど更に色々な映像技術を活用することによって、舞台の魅力を最大限に引き出している。
映画であって実際のライブのオペラの舞台とは確かに違うが、今年の初めにMETで経験した私自身のオペラ鑑賞体験と比較しても、質は違っているが、感動は、決して劣るものではないと思っている。
ハイビジョンの素晴らしい映像は勿論だが、今回の六本木の新しい映画劇場の音響効果は、昨年の歌舞伎座や新橋演舞場、それに、銀座ブロッサムとは格段の相違で、今回の「トリスタンとイゾルデ」には非常に満足している。
ところで、このオペラだが、金銭的に不如意だったワーグナーが手っ取り早く稼ぎたくて、簡単に上演出来るように作曲しており、問題と言えば、主役を歌う素晴らしいペアの歌手を探すことくらいだと言っていたようだが、実際には大変なオペラで、第一幕を振って帰って来た指揮者のジェイムズ・レヴァインが、フーフー言いながら、非常に重要な大変な難曲だと言っていた。
コーンウオールのマルケ王に嫁ぐ為に送られてきたアイルランドの王女イゾルデが、それが嫌で死のうとするのを、次女のブランゲーネが避けるために、毒薬と愛の妙薬をすり替えて与えたので、マルケ王の甥で迎えに来た自分の許婚を殺した憎いトリスタンと一緒に飲んでしまって、恋に落ちてしまう。
王の目を盗んで密会していた二人の愛の絶頂に、マルケ王達に踏み込まれ、トリスタンは裏切られた忠臣に刺されて重態となり故郷に帰るが、会いに来たイゾルデの前で息絶える。
こんな話を、ワーグナーは3幕ものの4時間のオペラに仕上げたのだが、第二幕の、螺旋を上り行くように延々と続くあまりにも甘味で美しいトリスタンとイゾルデの「愛の二重唱」を聞くだけでも、ワーグナー・ファンには、至福の絶頂なのである。
去年のウルトラウト・マイヤーのイゾルデに感激してブログを書いたが、今回のデボラ・ヴォイトの終楽章の「イゾルデの愛の死」など、その神々しさと言い、命の底から迸り出るような歌声は、正に感動的で、若い頃、レコードが擦り切れるほど聴いたビルギット・ニルソンやキルステン・フラグスタートのイゾルデを髣髴とされてくれた。
ベテランのベン・ヘップナー(私は、ロイヤル・オペラでルネ・フレミングとのオテロを観ているので期待していたのだが)の代役でトリスタンを歌ってMETデビューした若いアメリカのヘルデンテノール・ロバート・ディーン・シミスだが、既に、ワーグナーの本拠地バイロイトで、1997年に「ニュールンベルグのマイスタージンガー」のヴァルター役でデビューして、トリスタンは勿論、ローエングリンのタイトル・ロールや、「ワルキューレ」のジークムントを歌っており、ウイーン、ミラノ、ロンドン、ベルリン、ミュンヘン等々世界のヒノキ舞台で引っ張りだこのワーグナー歌いとなっていて、素晴らしく甘くて美しい説得力のある歌声はヴォイトのイゾルデに一歩も引かない迫力があって素晴らしい。
レヴァインの棒さばきの素晴らしさについては、蛇足なのでやめる。
大嵐で交通が大荒れの中を六本木ヒルズの劇場に出かけたので、残念ながら、第一幕の前奏曲をミスってしまって、ブランゲーネがトリスタンを迎えに行くシーンから観たのだが、しかし、実質4時間近くのワーグナーは正に圧巻であった。
ワーグナー・オペラの舞台は殆ど観ているが、このトリスタンとイゾルデは、まだ、実際の舞台を鑑賞したのは、ウイントガッセンとニルソンのバイロイトを皮切りに、ロンドンで、ウエールズ・ナショナル・オペラとロイヤル・オペラ、それに、先のウルトラウト・マイヤーのベルリン・オペラだけで、あれだけレコードやCDを聴いてワーグナー節が頭にこびりついているのに、鑑賞機会は非常に限られている。
最初に観たワーグナーの孫・ウイーラント・ワーグナーのバイロイトの舞台は、幽かに原色のバックが浮かび上がる殆ど真っ暗で何もない舞台の奥の、全くと言って良いほど動きの止まった空間から、延々と歌手達の歌声とオーケストラのうねるようなコワク的な音楽が迸り続けると言う感じであったが、今まで観た舞台も、これと同じ様に非常に抽象的でデフォルメされたモダンなセットばかりで、ゼフレッリのイタリア・オペラの華麗な舞台とは雲泥の差であった。
昔、我々のプロジェクトで仕事をしていたアーキテクトのサー・マイケル・ホプキンスが、ロイヤル・オペラのワーグナーの舞台セットを設計していたが、彼の自宅のように、パイプと鉄板を張り巡らせた船の内部のような舞台であったような記憶がある。
今回のMETの舞台は、舞台中央奥の一点を支柱にして、舞台正面枠の両側の柱と天井梁に向かって3枚の真っ白な3角形のテントを張ったセットで、これに間接照明を当ててライトの微妙な光の調整によってコンピューターで演出すると言う実に最先端を行くハイテクの世界である。
第一幕では、舞台中央に真っ黒なポールが立っていて、これがメインの帆柱、第二幕は、口絵のような柱状の王と王妃の居室がある程度で、後は、テンポラリーなセットが舞台床から這い上がっては消えて行き、歌手達は、舞台の床に開く開口口から登場してくる、と言った非常にシンプルなセットだが、舞台裏は巨大な工場と見紛うような光景である。
今回の映像で特筆すべきは、スクリーンにマルチ映像が映ることで、本来の映画などでは一場面しか映らないが、舞台の展開によって、スクリーンに同時に複数の画像が映し出されるのである。
例えば、トリスタンがイゾルデに歌いかけている場合、画面の中央上部には舞台の全景が写された画像があり、下の一方には歌っているトリスタン、他方には離れて聞いているイゾルデの表情が夫々クローズアップで映し出されるので、一度に複数の情報が入り、迫力が格段に向上するのみならず臨場感が全く違ってくるのである。
それに、客席に居れば同じ目線で平板な舞台しか楽しめないが、ズーミングやフェイズアウトなど更に色々な映像技術を活用することによって、舞台の魅力を最大限に引き出している。
映画であって実際のライブのオペラの舞台とは確かに違うが、今年の初めにMETで経験した私自身のオペラ鑑賞体験と比較しても、質は違っているが、感動は、決して劣るものではないと思っている。
ハイビジョンの素晴らしい映像は勿論だが、今回の六本木の新しい映画劇場の音響効果は、昨年の歌舞伎座や新橋演舞場、それに、銀座ブロッサムとは格段の相違で、今回の「トリスタンとイゾルデ」には非常に満足している。
ところで、このオペラだが、金銭的に不如意だったワーグナーが手っ取り早く稼ぎたくて、簡単に上演出来るように作曲しており、問題と言えば、主役を歌う素晴らしいペアの歌手を探すことくらいだと言っていたようだが、実際には大変なオペラで、第一幕を振って帰って来た指揮者のジェイムズ・レヴァインが、フーフー言いながら、非常に重要な大変な難曲だと言っていた。
コーンウオールのマルケ王に嫁ぐ為に送られてきたアイルランドの王女イゾルデが、それが嫌で死のうとするのを、次女のブランゲーネが避けるために、毒薬と愛の妙薬をすり替えて与えたので、マルケ王の甥で迎えに来た自分の許婚を殺した憎いトリスタンと一緒に飲んでしまって、恋に落ちてしまう。
王の目を盗んで密会していた二人の愛の絶頂に、マルケ王達に踏み込まれ、トリスタンは裏切られた忠臣に刺されて重態となり故郷に帰るが、会いに来たイゾルデの前で息絶える。
こんな話を、ワーグナーは3幕ものの4時間のオペラに仕上げたのだが、第二幕の、螺旋を上り行くように延々と続くあまりにも甘味で美しいトリスタンとイゾルデの「愛の二重唱」を聞くだけでも、ワーグナー・ファンには、至福の絶頂なのである。
去年のウルトラウト・マイヤーのイゾルデに感激してブログを書いたが、今回のデボラ・ヴォイトの終楽章の「イゾルデの愛の死」など、その神々しさと言い、命の底から迸り出るような歌声は、正に感動的で、若い頃、レコードが擦り切れるほど聴いたビルギット・ニルソンやキルステン・フラグスタートのイゾルデを髣髴とされてくれた。
ベテランのベン・ヘップナー(私は、ロイヤル・オペラでルネ・フレミングとのオテロを観ているので期待していたのだが)の代役でトリスタンを歌ってMETデビューした若いアメリカのヘルデンテノール・ロバート・ディーン・シミスだが、既に、ワーグナーの本拠地バイロイトで、1997年に「ニュールンベルグのマイスタージンガー」のヴァルター役でデビューして、トリスタンは勿論、ローエングリンのタイトル・ロールや、「ワルキューレ」のジークムントを歌っており、ウイーン、ミラノ、ロンドン、ベルリン、ミュンヘン等々世界のヒノキ舞台で引っ張りだこのワーグナー歌いとなっていて、素晴らしく甘くて美しい説得力のある歌声はヴォイトのイゾルデに一歩も引かない迫力があって素晴らしい。
レヴァインの棒さばきの素晴らしさについては、蛇足なのでやめる。