下総の行徳あたりの船着場だと言う、目と鼻の先が江戸である、そんな心寂しい舞台に、酌婦のお仲(玉三郎)が追手に追われて逃げ込んでくる。
続いて博打打の手取りの半太郎(勘三郎)が現われて、岸辺に佇んで江戸の方を指して物思いに耽る。博打で喧嘩沙汰になり江戸を追われた身だが胸に去来するのは江戸のことばかり。
身投げしたお仲を、半太郎が助けたことから、この底辺のどん底に生きる二人の儚くも悲しい、胸を締め付けるような切ない愛の物語が始まる。そんな人間のぎりぎりの情の世界を描いた長谷川伸の代表作を舞台にしたのが昼の部の最後の「刺青奇遇」である。
売られ続けて地獄を見続けてきたお仲は、財布ぐるみの金を与えて立ち去ろうとする半太郎に、男は皆同じで目的は自分の身体だと思ってしなだれかかるが、半太郎は、自分を見損なうな、「娑婆の男を見直せ」と怒鳴って立ち去る。
半太郎の心からの親切心に感動したお仲は必死になって半太郎を追う。
自分の身体を走り抜けて行った男たちに幻滅していたお仲が、半太郎の男の心の美しさと誠に触れて激しい感激を覚えて、生まれて初めて男に惚れてしまったのである。
半太郎は、後を追って来た追っかけ女房となったお仲と江戸の外れの南品川で暮らすが、ヤクザ稼業から足を洗ったものの博打を止められず、赤貧洗うが如しの貧乏暮らし。
重病の床に就く死期を悟った瀕死の状態のお仲が、怒らないでくれ、一生のお願いだと言って、半太郎の右腕にサイコロの刺青を彫り、これを見る度に、賭博はいけないと死んだ女房が言っていたことを思い出してくれと語る。
日本一好きな女に、せめても部屋を調度で飾って夢を持たせてあの世へ送りたいと思った半太郎は、金欲しさに最後の勝負に賭場に立つが、元手のない悲しさ、イカサマ・サイコロにすり替えて難癖をつけて金を得て、それを元手に大勝負に出ようとしたが、見つかって袋叩きに合う。
賭場を仕切る鮫の政五郎(仁左衛門)が騒ぎも見咎めて登場、半太郎の妻への痛切な思いを知り、気に入って子分になれと勧めるが半太郎は拒絶する。
政五郎は、自分の有り金を賭けるので勝負しようと言う。
半太郎最後の勝負は、半太郎の勝ちとなり、金を握り締めて一目散にお仲のもとへ駆けて行く。
この舞台は、勘三郎、玉三郎、仁左衛門の3名優が対峙した最高の舞台だと思って感激して観ていた。
ことに、玉三郎の名演は出色で、勘三郎が、それに触発されてその至芸を披露したと言う感じであり、これとは別に、本来ヤクザ稼業の親分に過ぎない筈の鮫の政五郎を、これほど男の中の男として格調高く演じ切った仁左衛門の役者としての芸の冴は流石である。
勘三郎が、「娑婆の男を見直しやがれと説教する所で、大和屋さんの表情が借りてきた猫のようになって行く、ものすごくかわいい顔を見せるんです」と言っているが、冒頭から真のお仲になりきったこの玉三郎の入魂の演技が、勘三郎の芸に火をつけ限りなく触発するのであろう。
死期を悟って半太郎に刺青を所望するお仲の表情は、儚く消えて行く薄倖の女のやるせない悲しみを秘めながら、実に健気で優しいし、半太郎への限りなき思いやりと愛情に満ちており、涙が零れるほど玉三郎の情の深い演技が胸を打つ。
天性の役者である勘三郎の役者魂に点火すれば、勘三郎は、役者であるのか勘三郎であるのか忘れてしまって、半太郎になりきってしまって突っ走る。
半太郎が、政五郎に問い詰められて、「世界一好きなのがお仲、二番目に好きなのが博打・・・」と涙を堪えながら語る時の表情は、恐らく勘三郎にしか出来ない芸であろう、ぎりぎりに切羽詰った人間の心の底から突き上げてくる激しいお仲への激情が肺腑を抉る。
博打さえしなければ、お仲にとっては世界一素晴らしい筈の半太郎だが、人生最後の土壇場になっても、お仲を喜ばせる為に博打で金を捻出しようとする、そして、二番目に好きなのが博打だと言わざるを得ない半太郎が、あまりにも悲しく切ないが、底辺に生きる人間の生き様を活写することによって、人間の偉大さ、貴さを語る長谷川伸の心が感動を呼ぶ。
蛇足ながら、望郷の念覚めやらぬ半太郎の故郷への思いが、半太郎の心の優しさ温かさを示しており、
室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの そして 悲しく詠うもの・・・」を彷彿とさせるのだが、
点景としてバックに、半太郎の実の両親を登場させて、人と人とのつながりの深さを暗示させているあたりの舞台の設定など細部への配慮は実に心にくいばかりである。
続いて博打打の手取りの半太郎(勘三郎)が現われて、岸辺に佇んで江戸の方を指して物思いに耽る。博打で喧嘩沙汰になり江戸を追われた身だが胸に去来するのは江戸のことばかり。
身投げしたお仲を、半太郎が助けたことから、この底辺のどん底に生きる二人の儚くも悲しい、胸を締め付けるような切ない愛の物語が始まる。そんな人間のぎりぎりの情の世界を描いた長谷川伸の代表作を舞台にしたのが昼の部の最後の「刺青奇遇」である。
売られ続けて地獄を見続けてきたお仲は、財布ぐるみの金を与えて立ち去ろうとする半太郎に、男は皆同じで目的は自分の身体だと思ってしなだれかかるが、半太郎は、自分を見損なうな、「娑婆の男を見直せ」と怒鳴って立ち去る。
半太郎の心からの親切心に感動したお仲は必死になって半太郎を追う。
自分の身体を走り抜けて行った男たちに幻滅していたお仲が、半太郎の男の心の美しさと誠に触れて激しい感激を覚えて、生まれて初めて男に惚れてしまったのである。
半太郎は、後を追って来た追っかけ女房となったお仲と江戸の外れの南品川で暮らすが、ヤクザ稼業から足を洗ったものの博打を止められず、赤貧洗うが如しの貧乏暮らし。
重病の床に就く死期を悟った瀕死の状態のお仲が、怒らないでくれ、一生のお願いだと言って、半太郎の右腕にサイコロの刺青を彫り、これを見る度に、賭博はいけないと死んだ女房が言っていたことを思い出してくれと語る。
日本一好きな女に、せめても部屋を調度で飾って夢を持たせてあの世へ送りたいと思った半太郎は、金欲しさに最後の勝負に賭場に立つが、元手のない悲しさ、イカサマ・サイコロにすり替えて難癖をつけて金を得て、それを元手に大勝負に出ようとしたが、見つかって袋叩きに合う。
賭場を仕切る鮫の政五郎(仁左衛門)が騒ぎも見咎めて登場、半太郎の妻への痛切な思いを知り、気に入って子分になれと勧めるが半太郎は拒絶する。
政五郎は、自分の有り金を賭けるので勝負しようと言う。
半太郎最後の勝負は、半太郎の勝ちとなり、金を握り締めて一目散にお仲のもとへ駆けて行く。
この舞台は、勘三郎、玉三郎、仁左衛門の3名優が対峙した最高の舞台だと思って感激して観ていた。
ことに、玉三郎の名演は出色で、勘三郎が、それに触発されてその至芸を披露したと言う感じであり、これとは別に、本来ヤクザ稼業の親分に過ぎない筈の鮫の政五郎を、これほど男の中の男として格調高く演じ切った仁左衛門の役者としての芸の冴は流石である。
勘三郎が、「娑婆の男を見直しやがれと説教する所で、大和屋さんの表情が借りてきた猫のようになって行く、ものすごくかわいい顔を見せるんです」と言っているが、冒頭から真のお仲になりきったこの玉三郎の入魂の演技が、勘三郎の芸に火をつけ限りなく触発するのであろう。
死期を悟って半太郎に刺青を所望するお仲の表情は、儚く消えて行く薄倖の女のやるせない悲しみを秘めながら、実に健気で優しいし、半太郎への限りなき思いやりと愛情に満ちており、涙が零れるほど玉三郎の情の深い演技が胸を打つ。
天性の役者である勘三郎の役者魂に点火すれば、勘三郎は、役者であるのか勘三郎であるのか忘れてしまって、半太郎になりきってしまって突っ走る。
半太郎が、政五郎に問い詰められて、「世界一好きなのがお仲、二番目に好きなのが博打・・・」と涙を堪えながら語る時の表情は、恐らく勘三郎にしか出来ない芸であろう、ぎりぎりに切羽詰った人間の心の底から突き上げてくる激しいお仲への激情が肺腑を抉る。
博打さえしなければ、お仲にとっては世界一素晴らしい筈の半太郎だが、人生最後の土壇場になっても、お仲を喜ばせる為に博打で金を捻出しようとする、そして、二番目に好きなのが博打だと言わざるを得ない半太郎が、あまりにも悲しく切ないが、底辺に生きる人間の生き様を活写することによって、人間の偉大さ、貴さを語る長谷川伸の心が感動を呼ぶ。
蛇足ながら、望郷の念覚めやらぬ半太郎の故郷への思いが、半太郎の心の優しさ温かさを示しており、
室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの そして 悲しく詠うもの・・・」を彷彿とさせるのだが、
点景としてバックに、半太郎の実の両親を登場させて、人と人とのつながりの深さを暗示させているあたりの舞台の設定など細部への配慮は実に心にくいばかりである。