市川團十郎が、青山学院大学文学部での集中講義「歌舞伎の伝統と美学」をベースにした「団十郎の歌舞伎案内」としてPHP新書を出版した。
歴代の團十郎でたどる歌舞伎の歴史、
歌舞伎のできるまでの歴史概説
役者から見た歌舞伎の名作ウラ話 と言った3部構成になっていて、親しみやすい語り口調なので、非常に分かりやすく、内容も豊かで面白い。
歌舞伎ができるまででは、ギリシャなど西洋演劇などとも比較しながらの薀蓄を傾けた日本のパーフォーマンス・アートの系譜について語り、歌舞伎の世界を浮き彫りにした歴史を展開していて興味深く、
名作ウラ話は、実際に自分の演じている歌舞伎の世界を、役者(本人は俳優ではないと言う)團十郎として語っているのだから面白くない筈がない。
しかし、私にとって興味深かったのは、歴代の團十郎の功績などを紐解きながら江戸歌舞伎の世界を語っている部分で、何時も、しっくりと行かなかった切った張ったのアウトローの舞台が何故江戸では人気が高いのか等を含めて歌舞伎の変遷を興味深く語っていることであった。
江戸歌舞伎の勃興期が、関が原の戦いで勝利を収めた徳川家康が江戸に幕府を開いた頃と一致して、江戸は正に新首都としての建設ラッシュに沸きかえり、江戸市民の気質もハイテンションで喧嘩が三度の飯より好き、火事と喧嘩が江戸の華と言う時代であった。
商売や行商に条件の良い場所を取る事が至上命令で、「場所取り」のために喧嘩が起こる。そこを上手く采配するのが、男伊達、侠客、地回りの衆で、こういう男伊達の集団の中にいた初代の市川團十郎の父・菰の十蔵が職業柄、芸能界との関係が深かったと言う。
それに、初代は子宝に恵まれなかったので先祖の故郷でもある成田山に祈った結果、念願の息子・市川九蔵が生まれたので、神仏の加護には格別の思い入れがある。
当時の江戸市民は、勇壮で強い主人公に憧れており、荒事、神が荒れることや御霊に対する恐怖心も強い。初代團十郎は、このような庶民の感情や美意識、そして信仰心を合体させた歌舞伎の舞台を作り上げたと言うのである。
荒事の芝居は、強きを挫き弱きを助ける勧善懲悪の世界で、子供のように邪気のない心で御霊信仰をベースにして、江戸庶民に馴染みのある物語を脚色した荒唐無稽の舞台が多いが、これでも、作者達は辻褄を合わせるために苦労した筈だ言う。
ところが、このような一本調子の見せる荒事歌舞伎の人気も、元禄を過ぎると下火になり、浄瑠璃のように物語性のしっかりした芸能が人気を博して来た。
歌舞伎の世界では、今でも、自分たちは謙遜(?)して「偽」と言い能楽や人形浄瑠璃を「本業」と呼んでいると言う。
秀吉が、千利休に切腹を命じてから茶道に興味を失って晩年気まぐれに能に入れ込んだのが、能楽生き残りの原因だと言うのが面白い。
回り舞台が完成するなど劇場機構が発展し、四代目は芝居研究会をつくって勉強するなど、この頃には、舞台に座っているだけで客が満足する市川家の「格」を意識するようになった。
七代目の時には、松羽目物が誕生し、歌舞伎18番が出来上がった。
興味深いのは、明治に入ってからで、それまで江戸歌舞伎は、見た目が華やかで面白ければ物語の時代背景や辻褄などどうでも良い荒唐無稽な舞台であったが、文明開化で西洋の知識を吸収してきた重鎮達が、演劇が一国の文化程度の高さを表す重要な指標であると考えて、プレッシャーをかけたので、歌舞伎にも演劇改良運動が起こったことである。
歌舞伎は、新しい時代において、何処から見ても誰が見ても恥ずかしくない、教育的な内容の高尚なものであるべきだと言うわけで、九代目は、その演劇改良の理念に則り、理屈っぽくて史実を忠実に描き、学者たちに時代考証させた内容の芝居を作り上げた。
ところが、見得を切るのではなく「腹芸」を旨としたこの「活歴物」に対して、様式美溢れる、総てが誇張されている江戸歌舞伎に慣れた庶民からは、「何だ、これが歌舞伎か?」と総スカンだったと言うから面白い。
私自身は、写真も趣味としているので、誇張された様式美のオンパレードで極彩色の江戸歌舞伎の世界、それも、最も美しい瞬間を凝縮フリーズした見得はそれなりに好きであるし興味を持っている。
ところが、一方、私の舞台鑑賞は、どちらかと言えば、シェイクスピアの戯曲やオペラ鑑賞からスタートしているので、物語性の豊かな中身のあるパーフォーマンス・アートの方に親近感を感じており、歌舞伎でも、近松門左衛門の世界、関西の和事の舞台、そして、人形浄瑠璃の方が違和感が少ないことも事実である。
歴代の團十郎でたどる歌舞伎の歴史、
歌舞伎のできるまでの歴史概説
役者から見た歌舞伎の名作ウラ話 と言った3部構成になっていて、親しみやすい語り口調なので、非常に分かりやすく、内容も豊かで面白い。
歌舞伎ができるまででは、ギリシャなど西洋演劇などとも比較しながらの薀蓄を傾けた日本のパーフォーマンス・アートの系譜について語り、歌舞伎の世界を浮き彫りにした歴史を展開していて興味深く、
名作ウラ話は、実際に自分の演じている歌舞伎の世界を、役者(本人は俳優ではないと言う)團十郎として語っているのだから面白くない筈がない。
しかし、私にとって興味深かったのは、歴代の團十郎の功績などを紐解きながら江戸歌舞伎の世界を語っている部分で、何時も、しっくりと行かなかった切った張ったのアウトローの舞台が何故江戸では人気が高いのか等を含めて歌舞伎の変遷を興味深く語っていることであった。
江戸歌舞伎の勃興期が、関が原の戦いで勝利を収めた徳川家康が江戸に幕府を開いた頃と一致して、江戸は正に新首都としての建設ラッシュに沸きかえり、江戸市民の気質もハイテンションで喧嘩が三度の飯より好き、火事と喧嘩が江戸の華と言う時代であった。
商売や行商に条件の良い場所を取る事が至上命令で、「場所取り」のために喧嘩が起こる。そこを上手く采配するのが、男伊達、侠客、地回りの衆で、こういう男伊達の集団の中にいた初代の市川團十郎の父・菰の十蔵が職業柄、芸能界との関係が深かったと言う。
それに、初代は子宝に恵まれなかったので先祖の故郷でもある成田山に祈った結果、念願の息子・市川九蔵が生まれたので、神仏の加護には格別の思い入れがある。
当時の江戸市民は、勇壮で強い主人公に憧れており、荒事、神が荒れることや御霊に対する恐怖心も強い。初代團十郎は、このような庶民の感情や美意識、そして信仰心を合体させた歌舞伎の舞台を作り上げたと言うのである。
荒事の芝居は、強きを挫き弱きを助ける勧善懲悪の世界で、子供のように邪気のない心で御霊信仰をベースにして、江戸庶民に馴染みのある物語を脚色した荒唐無稽の舞台が多いが、これでも、作者達は辻褄を合わせるために苦労した筈だ言う。
ところが、このような一本調子の見せる荒事歌舞伎の人気も、元禄を過ぎると下火になり、浄瑠璃のように物語性のしっかりした芸能が人気を博して来た。
歌舞伎の世界では、今でも、自分たちは謙遜(?)して「偽」と言い能楽や人形浄瑠璃を「本業」と呼んでいると言う。
秀吉が、千利休に切腹を命じてから茶道に興味を失って晩年気まぐれに能に入れ込んだのが、能楽生き残りの原因だと言うのが面白い。
回り舞台が完成するなど劇場機構が発展し、四代目は芝居研究会をつくって勉強するなど、この頃には、舞台に座っているだけで客が満足する市川家の「格」を意識するようになった。
七代目の時には、松羽目物が誕生し、歌舞伎18番が出来上がった。
興味深いのは、明治に入ってからで、それまで江戸歌舞伎は、見た目が華やかで面白ければ物語の時代背景や辻褄などどうでも良い荒唐無稽な舞台であったが、文明開化で西洋の知識を吸収してきた重鎮達が、演劇が一国の文化程度の高さを表す重要な指標であると考えて、プレッシャーをかけたので、歌舞伎にも演劇改良運動が起こったことである。
歌舞伎は、新しい時代において、何処から見ても誰が見ても恥ずかしくない、教育的な内容の高尚なものであるべきだと言うわけで、九代目は、その演劇改良の理念に則り、理屈っぽくて史実を忠実に描き、学者たちに時代考証させた内容の芝居を作り上げた。
ところが、見得を切るのではなく「腹芸」を旨としたこの「活歴物」に対して、様式美溢れる、総てが誇張されている江戸歌舞伎に慣れた庶民からは、「何だ、これが歌舞伎か?」と総スカンだったと言うから面白い。
私自身は、写真も趣味としているので、誇張された様式美のオンパレードで極彩色の江戸歌舞伎の世界、それも、最も美しい瞬間を凝縮フリーズした見得はそれなりに好きであるし興味を持っている。
ところが、一方、私の舞台鑑賞は、どちらかと言えば、シェイクスピアの戯曲やオペラ鑑賞からスタートしているので、物語性の豊かな中身のあるパーフォーマンス・アートの方に親近感を感じており、歌舞伎でも、近松門左衛門の世界、関西の和事の舞台、そして、人形浄瑠璃の方が違和感が少ないことも事実である。