娘家族が鎌倉へ移転したので鎌倉に出かけることが多くなった。
銭洗い弁天に程近い佐助なので、観光客と反対側に向かって鎌倉駅に向かうのだが、駅の西側は、市役所を外れると静かな官庁(?)と住宅街となっていて、八幡宮のある観光客でごった返している小町通りなどとは全く雰囲気が違っていて面白い。
店舗の雰囲気も様変わりで、駅からすぐ近くにgourmet and quality foodのスーパーKINOKUNIYAが店を構えていて、少し歩くと広々としたシックなスターバックスがあり今中庭の藤棚が美しい。
昔、ロンドンの郊外のキューガーデンのすぐ駅の近くに住んでいたことがあり、観光客が沢山通り過ぎるのだが、その時間を過ぎると全く静かな住宅地に帰るのと良く似ていると思った。
日中は、電車の好きな孫のお供をして江ノ電を藤沢まで往復したのだが、この電車は、京都の鞍馬へ行く叡電や嵐山へ行く嵐電と良く似た雰囲気で、マニアの人気が高いのか、沿線のあっちこっちで電車に向かってカメラを構えている人が結構多い。
通勤通学が主体の都心へ乗り入れている私鉄と違って、これらの電車は昔懐かしい雰囲気で乗っていて楽しいのだが、これだと、前の仁左衛門が電車が好きで、何故特急などの速い電車の料金が高いのか分からないと言っていた気持ちが分かるような気がする。
ウソか本当か知らないが、中国では、遅い列車の方が高いのだと、昔何かの本で読んだ記憶があるが、確かに、ヨーロッパを列車で旅をしているとそんな気がすることが幾度もある。
しかし、日本の都会地では、最近のJRもスピードだけを優先して、窓も開けられないような殺風景で無味乾燥な列車旅が多くなってしまって、旅情を誘う雰囲気がいつの間にかどんどん消えてしまっている。
夕刻、一人で引き返して江ノ電に乗って長谷まで出かけた。
4時過ぎだと言うのに、まだ、観光客は長谷の大仏に向かって歩いていて、喧騒な車道を挟んだ細い歩道は銀座並みの込みようで中々前に進めない。
大仏だけを仰ぎ見る為に来たのであるが、与謝野晶子が歌ったように確かに、この釈迦無牟尼(阿弥陀仏である)は美男におわす国宝仏で、奈良の大仏より優雅であり、新緑に燃える背後の小山をバックにして清々しい。大仏殿があるよりも、青天井で空を光背に聳えている方が良いと思う。
参道入口だと御仏が下向き加減に見えて威厳に欠けるので、出来るだけ近付いて正面から見上げると優雅さも良く分かる。
すぐに取って返して、長谷寺に向かった。何度も行っている奈良の長谷寺と観音がツインだと言うことであったので、長谷なら牡丹の花が美しいだろうと思ったのと、裏山に登って夕方の鎌倉の町並みを遠望しようと思ったからである。
境内は非常に手入れ良く清潔に保たれていて、新緑の中の下草まで大切に保護されており、綺麗な小さな花が顔を覗かせていた。アメリカ人の男女の学生が地面に張り付いてデジカメを構えて花の写真を撮っている。
山への登り道を歩いて行くと、先ほどの学生が下を見下ろして池を背後にして立つ地蔵菩薩を写していた。確かに、ブルーの池をバックにして、こじんまりした小さな四角の空間に囲われた地蔵菩薩は絵になるのだが、池のブルーは改修中のブルーシートで一寸興ざめであった。
山で囲まれた鎌倉だが、海岸線に沿って少し平地が広がっていて、逗子の方角に向かって砂浜が延びている。
高い建物がないので、木の間から見える鎌倉の町並みは単調で、下界を散策する時のような風情はないが、かなり大きな都市である。
境内の池には、水際に真っ白な水芭蕉が咲いていて、その下を錦鯉が泳いでいる。湧き水か谷川の流れか澄み切った水が光っていて気持ちが良い。
その池を囲むように牡丹苑が広がっていて、白い傘を差した綺麗な牡丹が咲き乱れている。
殆ど咲ききっていて今一番綺麗な時かも知れない。
ここの牡丹は、特別な種類はなさそうで、白、ピンク、赤の八重咲きが殆どであった。
上野の東照宮の牡丹苑は、白い傘を適当に端折って牡丹を見せているが、ここの牡丹は、傘の数がやや多いような感じがして一寸目ざわりである。
時間ぎりぎりの5時半まで居たので、寺の職員達は観光客が出たところから閉苑の看板を立てかけていたが、観光慣れするのもどうかと思った。東京より少し西に位置するので、まだ、陽が高いのである。
銭洗い弁天に程近い佐助なので、観光客と反対側に向かって鎌倉駅に向かうのだが、駅の西側は、市役所を外れると静かな官庁(?)と住宅街となっていて、八幡宮のある観光客でごった返している小町通りなどとは全く雰囲気が違っていて面白い。
店舗の雰囲気も様変わりで、駅からすぐ近くにgourmet and quality foodのスーパーKINOKUNIYAが店を構えていて、少し歩くと広々としたシックなスターバックスがあり今中庭の藤棚が美しい。
昔、ロンドンの郊外のキューガーデンのすぐ駅の近くに住んでいたことがあり、観光客が沢山通り過ぎるのだが、その時間を過ぎると全く静かな住宅地に帰るのと良く似ていると思った。
日中は、電車の好きな孫のお供をして江ノ電を藤沢まで往復したのだが、この電車は、京都の鞍馬へ行く叡電や嵐山へ行く嵐電と良く似た雰囲気で、マニアの人気が高いのか、沿線のあっちこっちで電車に向かってカメラを構えている人が結構多い。
通勤通学が主体の都心へ乗り入れている私鉄と違って、これらの電車は昔懐かしい雰囲気で乗っていて楽しいのだが、これだと、前の仁左衛門が電車が好きで、何故特急などの速い電車の料金が高いのか分からないと言っていた気持ちが分かるような気がする。
ウソか本当か知らないが、中国では、遅い列車の方が高いのだと、昔何かの本で読んだ記憶があるが、確かに、ヨーロッパを列車で旅をしているとそんな気がすることが幾度もある。
しかし、日本の都会地では、最近のJRもスピードだけを優先して、窓も開けられないような殺風景で無味乾燥な列車旅が多くなってしまって、旅情を誘う雰囲気がいつの間にかどんどん消えてしまっている。
夕刻、一人で引き返して江ノ電に乗って長谷まで出かけた。
4時過ぎだと言うのに、まだ、観光客は長谷の大仏に向かって歩いていて、喧騒な車道を挟んだ細い歩道は銀座並みの込みようで中々前に進めない。
大仏だけを仰ぎ見る為に来たのであるが、与謝野晶子が歌ったように確かに、この釈迦無牟尼(阿弥陀仏である)は美男におわす国宝仏で、奈良の大仏より優雅であり、新緑に燃える背後の小山をバックにして清々しい。大仏殿があるよりも、青天井で空を光背に聳えている方が良いと思う。
参道入口だと御仏が下向き加減に見えて威厳に欠けるので、出来るだけ近付いて正面から見上げると優雅さも良く分かる。
すぐに取って返して、長谷寺に向かった。何度も行っている奈良の長谷寺と観音がツインだと言うことであったので、長谷なら牡丹の花が美しいだろうと思ったのと、裏山に登って夕方の鎌倉の町並みを遠望しようと思ったからである。
境内は非常に手入れ良く清潔に保たれていて、新緑の中の下草まで大切に保護されており、綺麗な小さな花が顔を覗かせていた。アメリカ人の男女の学生が地面に張り付いてデジカメを構えて花の写真を撮っている。
山への登り道を歩いて行くと、先ほどの学生が下を見下ろして池を背後にして立つ地蔵菩薩を写していた。確かに、ブルーの池をバックにして、こじんまりした小さな四角の空間に囲われた地蔵菩薩は絵になるのだが、池のブルーは改修中のブルーシートで一寸興ざめであった。
山で囲まれた鎌倉だが、海岸線に沿って少し平地が広がっていて、逗子の方角に向かって砂浜が延びている。
高い建物がないので、木の間から見える鎌倉の町並みは単調で、下界を散策する時のような風情はないが、かなり大きな都市である。
境内の池には、水際に真っ白な水芭蕉が咲いていて、その下を錦鯉が泳いでいる。湧き水か谷川の流れか澄み切った水が光っていて気持ちが良い。
その池を囲むように牡丹苑が広がっていて、白い傘を差した綺麗な牡丹が咲き乱れている。
殆ど咲ききっていて今一番綺麗な時かも知れない。
ここの牡丹は、特別な種類はなさそうで、白、ピンク、赤の八重咲きが殆どであった。
上野の東照宮の牡丹苑は、白い傘を適当に端折って牡丹を見せているが、ここの牡丹は、傘の数がやや多いような感じがして一寸目ざわりである。
時間ぎりぎりの5時半まで居たので、寺の職員達は観光客が出たところから閉苑の看板を立てかけていたが、観光慣れするのもどうかと思った。東京より少し西に位置するので、まだ、陽が高いのである。