熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

地元の書店の閉店・・・ロバート・B・ライシュの場合

2008年06月24日 | 政治・経済・社会
   私の住んでいる郊外の住宅街にあった大型チェーン書店の支店が、最近閉店した。
   かなり大きな駐車場のある郊外店の一つで、周りには、自動車の販売店やファミリー・レストラン、それに、ツタヤなどのある幹線道路沿いの書店だが、確かに、休日は家族客などが入っていたが、繁盛していると言うような店ではなかった。
   先日、旭屋書店の銀座店の閉店について触れたが、暇を見ては、散歩の合間に出かけるなど重宝していたので、少し残念に思っている。

   日本人の書籍離れが騒がれてから既に久しいが、全国的には、地方の個人書店は勿論、大型の全国的チェーン店でもどんどん潰れていて、書店数が減っていると言う。
   TVやインターネット、それに、携帯電話など、書籍に代替するメディアが、手を変え品を変えて魅力的な情報ツールを提供してくれるので、わざわざ、重い本を抱えて活字を目で追うと言う苦労までして、本を読む必要がなくなったと言うことなのであろうか。
   私のように、本の好きな人間にとっては、何となく寂しい気がしている。

   ところで、今読んでいるロバート・B・ライシュの「暴走する資本主義 Supercapitalism」の中で、ライシュが、自分の家から程近いハーバード・スクェアの個人書店の閉店について面白いことを書いている。
   この本では、
   ”民主主義に連動していた筈の資本主義が、最近、暴走し始めて、超資本主義(Supercapitalism)に取って代わられてしまった。
   消費者と投資者としての我々は、より多くの選択肢から良い条件を得られると言う幸運に恵まれ飛躍的に成長して来たが、公共の利益を追求し、富の分配を調整したり、市民達の共通の価値観を守って行く制度は崩壊の危機に瀕している。
   例えば、消費者が、ウォルマートでの安い買い物に執着すればするほど、それを実現する為に、経営者は、労働者の所得や福利厚生を徹底的に削減して益々市民生活を悪化させ、投資家が、投資のリターンをアップする為に企業のCEOをプッシュすればするほど、環境保全や公共の福祉を悪化させることになる。
   消費者と投資家としての個人的な経済的利益を追求すれば追及するほど、自分達の生活を悪化させ窮地に追い込んで行くと言う、このジレンマが、超資本主義に陥った我々の悲劇である。”と言ったことを書いている。

   ところで、ライシュ先生は、慣れ親しんだ地元の雰囲気の良い商店街の書店をこよなく愛していたが、さて、自分の書棚を見ると、殆どの本は、この書店に行って買ったのではなく、アマゾンやバーンズ&ノーブル、空港のボーダーズで買ったものばかりで、何時の間にか店が潰れているのに気付いたと言うのである。
   地元の商店街の賑わいが懐かしいだとか、暖かい雰囲気の歴史と伝統のある文化の香りのする商店街を大切に維持しなければならないと、人々は口々に言うのだが、そんな人に限って、郊外の大型店のあるショッピングセンターやディスカウントショップに出かけたり、インターネットで最も安い店を探してネットショッピングするなどして商品を買い、肝心の地元の商店街など眼中になく行かないと言う。
   主張と行動が全く違う、この市民としての自分と消費者・投資者としての自分と言う自分自身の乖離が問題なのである。
   
   ビジネス革命と言えば聞こえが良いが、安いものを買いたい、利回りの高い投資をしたいと言った自分達の経済的なエゴが、どんどん、経済合理性を企業に突きつけて締め上げを促進して、結局は逆に、自分達の生活を窮地に追い詰めて行くこの超資本主義において、
   内なる市民が、内なる消費者・投資家に打ち勝つ唯一の道は、購入や投資を個人的な選択ではなく、社会的な選択にする法律や規制を作ることだとライシュは説く。
   オバマが大統領になれば、ブレーンの一人だと目されているこのライシュ先生が、クリントン大統領の時のように、もう一度、アメリカの民主的資本主義への軌道修正へ貢献できる機会が巡ってくることになる。

   地元の個人書店が消えて行くのも、大きな資本主義のうねりに翻弄されてのことだが、ライシュのスーパーキャピタリズムについては、項を改めて、じっくり考えてみたいと思っている。
コメント
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