コッターが、「幸之助論」で引き出した最大の教訓は「艱難汝を玉にす」に近い。「人は経験から学ぶ。それも、苦境を経験してこそ一皮むける。」と言うメッセージに凝縮される。と、監訳者の金井壽宏教授は言う。
しかし、コッターは、最終章で、
幸之助の基本思想は、生涯にわたって学び続けると言うことで、家柄や学歴、抜群の知性や優れた容姿や豊かな個性は素晴らしいことだが、もっとこれよりも重要なことは、信念とそれを支える理想である。
謙虚で素直な心があれば、人はどんな経験からも、どんな年齢でも学べる。人道的な大きな理想を抱けば、成功も失敗も克服し、そのどちらからも学び、成長し続けることが出来る。
彼の驚嘆すべき業績は、これらの主張の力強い証明にほかならない。と言っている。
艱難辛苦が、幸之助を「20世紀で最も驚嘆すべき企業家」として育て上げた切っ掛けにはなったかも知れないが、幸之助にとって重要なことは、常人には往々にして欠けている彼独特の特質、すなわち、生涯にわたって成長を続けようとした信念と理想、そして、絶対に人生を後ろ向きに見ない理想主義的・人道主義的な激しい生きる情熱であったと思う。
ところで、最近は、経営学教育の重要性が説かれる一方、MBAの功罪についても喧しく論じられているので、幸之助経営との関連で、学歴や経営学教育について考えてみたい。
MBAについては、このブログでも触れたミンツバーグの「MBAが会社を滅ぼす MANAGERS NOT MBAs」で、経営実務を重視したマネジメント教育について論じられおり、また、折に触れてMBA論を展開してきているので、ここでは、直接の言及は避けたい。
面白い話だが、コッターが「幸之助論」のなかで、幸之助が、東大を閉鎖すると、資産1兆円を売却して年間10%の利子を得れば1000億円の収入となり、年間運営費の500億円を加えて、日本政府は、1500億円の節約が出来る、と高等教育改革案で論じていると紹介している。
何故引用したのか意図が分らないが、コッターは、ハーバードやプリンストンやエールを閉鎖した時にどれだけ節約できるかを計算する以上に乱暴な考えであると指摘している。
幸之助の名誉の為に、あくまで日本の高等教育に対して活を入れるためのコメントとして受け止めるが、学問や教育、知や真善美に対して人類が営々として築き上げて来た崇高なる遺産を守り抜き発信して来た東大の配電盤(司馬遼太郎の言葉)としての使命は、銭金では計り知れない無限・無窮の価値を持っていることを努々忘れてはならない。
幸之助の学問に対する考えの一端だと思うと興味深いが、この見解を考えるのに、「暴走する資本主義」の中で、ライシュが論じている企業のCEOの革命的な変質論が非常に参考になる。
現在のように革命的な変貌を遂げてしまった超資本主義下でのCEOは、何よりも、投資家を満足させなければならない。激烈な変化に抗して競争に打ち勝って企業価値を高める為に、過酷かつ熾烈な試練に曝されており(従ってこれが極めて高額で法外な報酬に繋がっているのだが)、経営以外にわき目を振っている贅沢など全くない。
しかし、超資本主義以前の大量生産時代の産業社会においては、今日と比べると変化や技術革新が極めて緩慢であり、自学自習で仕事から学ぶ幸之助のような後追いのキャッチアップ経営を行う余裕があった。
ところが時代が変わってしまって、超資本主義の時代においては、中村会長の言うように、まねした電器ではダメで、先頭を走るイノベーターでありナンバーワンでなければこのデジタル時代でを乗り切って行けなくなってしまった。
今日のCEOは、艱難汝を玉にすと言ったぶっつけ本番で成長して行く時間的余裕など全くなく、臨戦態勢に入った段階で、既にプロとしての経営者としての高度な経営知識と理論武装を伴っていることが必須となってきてしまったのである。
その場合に考えられるのは、やはり、MBA等の経営者ないしマネジメント教育だが、経営におけるエクセレント・パーフォーマンスやベスト・プラクティス等の体系化やエッセンスの集積だとするならば、この教育訓練を受けることは、いわば、高度かつ凝縮された代理経験の体現化であり、最も手っ取り早く短時間で効率的に、経営学なり経営手法を身に付ける為の手段と考えられないであろうか。
知識と情報が爆発している今日、企業経営においてこそ、従前には考えられなかったような高度な経営知識が必須となってきており、大学院や最近脚光を浴びている個別企業などにおける高度なプロとしてのマネジメント教育を益々充実させて行くことが大切となってきている。
時代が変わってしまったのである。
しかし、コッターは、最終章で、
幸之助の基本思想は、生涯にわたって学び続けると言うことで、家柄や学歴、抜群の知性や優れた容姿や豊かな個性は素晴らしいことだが、もっとこれよりも重要なことは、信念とそれを支える理想である。
謙虚で素直な心があれば、人はどんな経験からも、どんな年齢でも学べる。人道的な大きな理想を抱けば、成功も失敗も克服し、そのどちらからも学び、成長し続けることが出来る。
彼の驚嘆すべき業績は、これらの主張の力強い証明にほかならない。と言っている。
艱難辛苦が、幸之助を「20世紀で最も驚嘆すべき企業家」として育て上げた切っ掛けにはなったかも知れないが、幸之助にとって重要なことは、常人には往々にして欠けている彼独特の特質、すなわち、生涯にわたって成長を続けようとした信念と理想、そして、絶対に人生を後ろ向きに見ない理想主義的・人道主義的な激しい生きる情熱であったと思う。
ところで、最近は、経営学教育の重要性が説かれる一方、MBAの功罪についても喧しく論じられているので、幸之助経営との関連で、学歴や経営学教育について考えてみたい。
MBAについては、このブログでも触れたミンツバーグの「MBAが会社を滅ぼす MANAGERS NOT MBAs」で、経営実務を重視したマネジメント教育について論じられおり、また、折に触れてMBA論を展開してきているので、ここでは、直接の言及は避けたい。
面白い話だが、コッターが「幸之助論」のなかで、幸之助が、東大を閉鎖すると、資産1兆円を売却して年間10%の利子を得れば1000億円の収入となり、年間運営費の500億円を加えて、日本政府は、1500億円の節約が出来る、と高等教育改革案で論じていると紹介している。
何故引用したのか意図が分らないが、コッターは、ハーバードやプリンストンやエールを閉鎖した時にどれだけ節約できるかを計算する以上に乱暴な考えであると指摘している。
幸之助の名誉の為に、あくまで日本の高等教育に対して活を入れるためのコメントとして受け止めるが、学問や教育、知や真善美に対して人類が営々として築き上げて来た崇高なる遺産を守り抜き発信して来た東大の配電盤(司馬遼太郎の言葉)としての使命は、銭金では計り知れない無限・無窮の価値を持っていることを努々忘れてはならない。
幸之助の学問に対する考えの一端だと思うと興味深いが、この見解を考えるのに、「暴走する資本主義」の中で、ライシュが論じている企業のCEOの革命的な変質論が非常に参考になる。
現在のように革命的な変貌を遂げてしまった超資本主義下でのCEOは、何よりも、投資家を満足させなければならない。激烈な変化に抗して競争に打ち勝って企業価値を高める為に、過酷かつ熾烈な試練に曝されており(従ってこれが極めて高額で法外な報酬に繋がっているのだが)、経営以外にわき目を振っている贅沢など全くない。
しかし、超資本主義以前の大量生産時代の産業社会においては、今日と比べると変化や技術革新が極めて緩慢であり、自学自習で仕事から学ぶ幸之助のような後追いのキャッチアップ経営を行う余裕があった。
ところが時代が変わってしまって、超資本主義の時代においては、中村会長の言うように、まねした電器ではダメで、先頭を走るイノベーターでありナンバーワンでなければこのデジタル時代でを乗り切って行けなくなってしまった。
今日のCEOは、艱難汝を玉にすと言ったぶっつけ本番で成長して行く時間的余裕など全くなく、臨戦態勢に入った段階で、既にプロとしての経営者としての高度な経営知識と理論武装を伴っていることが必須となってきてしまったのである。
その場合に考えられるのは、やはり、MBA等の経営者ないしマネジメント教育だが、経営におけるエクセレント・パーフォーマンスやベスト・プラクティス等の体系化やエッセンスの集積だとするならば、この教育訓練を受けることは、いわば、高度かつ凝縮された代理経験の体現化であり、最も手っ取り早く短時間で効率的に、経営学なり経営手法を身に付ける為の手段と考えられないであろうか。
知識と情報が爆発している今日、企業経営においてこそ、従前には考えられなかったような高度な経営知識が必須となってきており、大学院や最近脚光を浴びている個別企業などにおける高度なプロとしてのマネジメント教育を益々充実させて行くことが大切となってきている。
時代が変わってしまったのである。