北鎌倉駅の真後ろの禅寺が円覚寺である。
道路に面して総門があり円覚寺と大書した石柱が立っていて、丁度、その門に覆い被さるように色づき始めた紅葉が鮮やかなので、観光客は、境内に入る前に写真を撮っている。
その門をくぐって先に進むと、かなり長い石段が続いていて、その上に巨大な三門が威圧するように聳えていて、今まで歩いてきた浄智寺や東慶寺などとスケールが違い、やっと、鎌倉の禅寺に来たと言う気持ちがする。
三門の背後は開けた感じで、仏殿、方丈と続き、境内のもみじが紅葉して秋色を濃厚に醸し出していて、冷気が清々しいので気持ちが良い。
私は、円覚寺では、国宝の舎利殿の姿を見ることと境内を散策して秋を感じることくらいしか目的がなかったので、堂宇に入ったのは、通り道にあった座禅道場である選仏場だけで、その後、背後の山に上って休憩所の赤毛氈の床机に座って涼風に吹かれていた。
丁度、境内の建物や木々が下に広がっており、しばらく、紅葉混じりの緑に包まれた禅寺の雰囲気を楽しんでいた。
舎利殿へ行く途中、正伝庵の前に小さな池があり、緋鯉などが泳いでいるのだが、水際の石の上で、1羽のアオサギが剥製のようにじっと動かずに水面を凝視しているのに気がついた。
鯉の子供たちが浮き上がって空気をパクパクし始めると、サギが静かに近づいて勢い良く長い首を伸ばして嘴を突っ込んだが、失敗して対岸に飛び去った。
確かに沢山魚が居るので良い餌場なのであろうか、人が寄り付いても無頓着で逃げないところを見ると、何時も来ているようである。
ところで、この舎利殿だが、正月と秋の虫干しの時期の僅かな期間しか公開していないので、何回も来ているが近づけず、今回も、門口から垣間見るだけであった。
正面の唐門が邪魔していて、奥にある舎利殿本体は、裳腰の上から屋根だけしか見えないのだが、関東には殆ど国宝の建物がないので何時も残念に思いながら帰る。
門口から参道にかけて紅葉が大分進んでいるが、やや、時期が早いのであろうか、まだ、くすんだ色合いで赤い色が出ていない。
京都や奈良の紅葉と比べたら、鎌倉の紅葉は大分落ちるようだと言ったら、娘に怒られたが、やはり、大原の山里や、宇治河畔の鮮やかな錦に輝く紅葉の美しさを、今まで他で見たことがない。
仏殿の東側の急な石段を上って弁天堂に向かうと、頂上に、国宝の洪鐘がある。
国泰民安と大書された優雅な形の梵鐘で、貞時の寄進だと言う。
ここは、高台になっているので展望所も兼ねていて、駅舎のある谷底を隔てて、向こう側に東慶寺の境内がそっくり見える。
また、右手の山の切れ目から富士山が見えるのだが、朝方美しく見えていた優雅な姿も雲に覆われて霞んでしまっていた。
茶店があるのだが、まともなコーヒーがある筈もないので諦めて山を降りた。
表の道路に出て、線路から離れて鎌倉に向かって歩くと、途中に、谷川に沿った感じの良い小道が山に向かっている。しばらく歩くと、前方の黄色く色づいて光っているイチョウの木の向こうに質素な名月院の総門が見える。
私は、一度アジサイの頃に来たことがあるが、アジサイ寺として有名であるから、アジサイは美しいのだが、とにかく、境内が狭いので、芋の子を洗うような人込みで、銀座の雑踏の比ではなかった。
寅さんが、マドンナの石田あゆみとランデブーする場所だったが、アジサイの香りが漂ってくるようなあの映画は、寅さんシリーズでも、私の好きな映画である。
総門を入ると、なだらかな鎌倉石の参道が三門まで続いていて、その小道の左右にアジサイが所狭しと植え込まれていて、毎年梅雨の頃には美しく咲き乱れる。
右手の山の手には、素晴らしい竹林があって立派な孟宗竹がすっくと伸びて美しい造形を形作っていて気持ちが良い。
この寺は、花の寺としても有名で、季節毎に色々な花が咲き乱れて境内を彩るので散策するのが楽しい。
今は、萩、シュウメイギク、ホトトギス、サザンカ、そして、紅葉の季節である。
この日は、本堂に上がって、丸窓から縁先に出て、本堂後庭園を見た。
この口絵写真は、本堂の外側から部屋を通して丸窓から庭園を遠望したものだが、ユニセフ募金に協力すれば、上に上がって、せんべいとお茶で憩いながら広々とした庭園を鑑賞することが出来る。
アジサイや菖蒲、そして、晩秋の紅葉時に、庭の散策が許されているようだが、この日は庭には入れなかった。
縁先からのすぐの庭は、背の低いドウダン躑躅様の生垣と小さな池に囲まれた京都風の庭園だが、その背後の広々とした空間には芝生庭園が広がっていて、更にその向こうにはもみじに囲まれた菖蒲畑があり、周りの山が借景となった素晴らしい庭園が展開されている。
京都の古社寺の庭園ほど、高価な木や花木、石材などが使われているようには思えないし、庭の造りもかなり雑だが、とにかく、随分広くて、境内全体の半分くらいの面積を占めており、自然の美しさを生かしたオープンで調和の取れた庭園は、実に素晴らしく、小さな小部屋から、丸窓をくぐって出て見た時の感激は一入である。
反対側の本堂正面の庭は、枯山水庭園だが、やはり、本堂の部屋の高見から眺めると、また、別な風情を感じさせてくれて、中々、素晴らしい。
質素な三門の柱に、青竹に無造作に穴を開けた花活けが立て掛けられていて、三つの節毎に、野菊やシュウメイギクなどの草花が生けられていたり、垣根に竹筒を立ち上げて、その頭を切って花活けにして季節の草花を生けているのなど、実に風雅で味があって良い。
それにこの寺では、境内の地蔵さんや石仏に、真っ赤な毛糸織りの帽子や着物、マフラーをつけたり、また、水入れは勿論、あっちこっちに花を置いたり活けていたりしていて、その色彩感覚の豊かさは日本離れしていて面白い。
昔、奈良の法起寺で、尼さんが、仏壇の前に小さなかわらけ風の茶碗に一つづつ色々な椿の花を浮かせて飾っていたのを覚えているが、侘び寂が全てではなく、仏を美しい花で荘厳するのも、祈りの姿かも知れないと思った。
道路に面して総門があり円覚寺と大書した石柱が立っていて、丁度、その門に覆い被さるように色づき始めた紅葉が鮮やかなので、観光客は、境内に入る前に写真を撮っている。
その門をくぐって先に進むと、かなり長い石段が続いていて、その上に巨大な三門が威圧するように聳えていて、今まで歩いてきた浄智寺や東慶寺などとスケールが違い、やっと、鎌倉の禅寺に来たと言う気持ちがする。
三門の背後は開けた感じで、仏殿、方丈と続き、境内のもみじが紅葉して秋色を濃厚に醸し出していて、冷気が清々しいので気持ちが良い。
私は、円覚寺では、国宝の舎利殿の姿を見ることと境内を散策して秋を感じることくらいしか目的がなかったので、堂宇に入ったのは、通り道にあった座禅道場である選仏場だけで、その後、背後の山に上って休憩所の赤毛氈の床机に座って涼風に吹かれていた。
丁度、境内の建物や木々が下に広がっており、しばらく、紅葉混じりの緑に包まれた禅寺の雰囲気を楽しんでいた。
舎利殿へ行く途中、正伝庵の前に小さな池があり、緋鯉などが泳いでいるのだが、水際の石の上で、1羽のアオサギが剥製のようにじっと動かずに水面を凝視しているのに気がついた。
鯉の子供たちが浮き上がって空気をパクパクし始めると、サギが静かに近づいて勢い良く長い首を伸ばして嘴を突っ込んだが、失敗して対岸に飛び去った。
確かに沢山魚が居るので良い餌場なのであろうか、人が寄り付いても無頓着で逃げないところを見ると、何時も来ているようである。
ところで、この舎利殿だが、正月と秋の虫干しの時期の僅かな期間しか公開していないので、何回も来ているが近づけず、今回も、門口から垣間見るだけであった。
正面の唐門が邪魔していて、奥にある舎利殿本体は、裳腰の上から屋根だけしか見えないのだが、関東には殆ど国宝の建物がないので何時も残念に思いながら帰る。
門口から参道にかけて紅葉が大分進んでいるが、やや、時期が早いのであろうか、まだ、くすんだ色合いで赤い色が出ていない。
京都や奈良の紅葉と比べたら、鎌倉の紅葉は大分落ちるようだと言ったら、娘に怒られたが、やはり、大原の山里や、宇治河畔の鮮やかな錦に輝く紅葉の美しさを、今まで他で見たことがない。
仏殿の東側の急な石段を上って弁天堂に向かうと、頂上に、国宝の洪鐘がある。
国泰民安と大書された優雅な形の梵鐘で、貞時の寄進だと言う。
ここは、高台になっているので展望所も兼ねていて、駅舎のある谷底を隔てて、向こう側に東慶寺の境内がそっくり見える。
また、右手の山の切れ目から富士山が見えるのだが、朝方美しく見えていた優雅な姿も雲に覆われて霞んでしまっていた。
茶店があるのだが、まともなコーヒーがある筈もないので諦めて山を降りた。
表の道路に出て、線路から離れて鎌倉に向かって歩くと、途中に、谷川に沿った感じの良い小道が山に向かっている。しばらく歩くと、前方の黄色く色づいて光っているイチョウの木の向こうに質素な名月院の総門が見える。
私は、一度アジサイの頃に来たことがあるが、アジサイ寺として有名であるから、アジサイは美しいのだが、とにかく、境内が狭いので、芋の子を洗うような人込みで、銀座の雑踏の比ではなかった。
寅さんが、マドンナの石田あゆみとランデブーする場所だったが、アジサイの香りが漂ってくるようなあの映画は、寅さんシリーズでも、私の好きな映画である。
総門を入ると、なだらかな鎌倉石の参道が三門まで続いていて、その小道の左右にアジサイが所狭しと植え込まれていて、毎年梅雨の頃には美しく咲き乱れる。
右手の山の手には、素晴らしい竹林があって立派な孟宗竹がすっくと伸びて美しい造形を形作っていて気持ちが良い。
この寺は、花の寺としても有名で、季節毎に色々な花が咲き乱れて境内を彩るので散策するのが楽しい。
今は、萩、シュウメイギク、ホトトギス、サザンカ、そして、紅葉の季節である。
この日は、本堂に上がって、丸窓から縁先に出て、本堂後庭園を見た。
この口絵写真は、本堂の外側から部屋を通して丸窓から庭園を遠望したものだが、ユニセフ募金に協力すれば、上に上がって、せんべいとお茶で憩いながら広々とした庭園を鑑賞することが出来る。
アジサイや菖蒲、そして、晩秋の紅葉時に、庭の散策が許されているようだが、この日は庭には入れなかった。
縁先からのすぐの庭は、背の低いドウダン躑躅様の生垣と小さな池に囲まれた京都風の庭園だが、その背後の広々とした空間には芝生庭園が広がっていて、更にその向こうにはもみじに囲まれた菖蒲畑があり、周りの山が借景となった素晴らしい庭園が展開されている。
京都の古社寺の庭園ほど、高価な木や花木、石材などが使われているようには思えないし、庭の造りもかなり雑だが、とにかく、随分広くて、境内全体の半分くらいの面積を占めており、自然の美しさを生かしたオープンで調和の取れた庭園は、実に素晴らしく、小さな小部屋から、丸窓をくぐって出て見た時の感激は一入である。
反対側の本堂正面の庭は、枯山水庭園だが、やはり、本堂の部屋の高見から眺めると、また、別な風情を感じさせてくれて、中々、素晴らしい。
質素な三門の柱に、青竹に無造作に穴を開けた花活けが立て掛けられていて、三つの節毎に、野菊やシュウメイギクなどの草花が生けられていたり、垣根に竹筒を立ち上げて、その頭を切って花活けにして季節の草花を生けているのなど、実に風雅で味があって良い。
それにこの寺では、境内の地蔵さんや石仏に、真っ赤な毛糸織りの帽子や着物、マフラーをつけたり、また、水入れは勿論、あっちこっちに花を置いたり活けていたりしていて、その色彩感覚の豊かさは日本離れしていて面白い。
昔、奈良の法起寺で、尼さんが、仏壇の前に小さなかわらけ風の茶碗に一つづつ色々な椿の花を浮かせて飾っていたのを覚えているが、侘び寂が全てではなく、仏を美しい花で荘厳するのも、祈りの姿かも知れないと思った。