安全と安心のできる社会と言うテーマで、東京のトップ大学の「四大学連合文化講演会」が、一橋記念講堂で開かれ、昨年同様聴講した。
学術研究の最前線をやさしく開設すると言うのが狙いだが、聴講生の殆どは、四大学(東京外大、東京工大、一橋大、東京医科歯科大)のOBと思しき老紳士で占められ、水準の高い非常に感銘深い講演会であった。
そのうちの一つの講座であるが、東京外大の永原陽子教授が、アフリカの歴史から、如何に、これまで黒人たちの人権が無視されて来たか、そして、現在、少しづつグローバリゼーションの激しい潮流の中で人格を認めれつつある現状を、
一人の南アフリカの先住民コイコイ人(ホッテントット)女性サラ・バールトマンの悲しくも残酷な人生を紐解きながら語った。
サラは、1789年生まれで、白人の農場で働いていたが、1810年に、ロンドンへ連れて来られて、「ホッテントットのヴィーナス」として見世物に出され、ピカデリー広場でのショーにイギリス人がわんさと押しかけマスメディアに好奇の記事が書かれたと言う。
更に、1814年にパリに移され、ここでも見世物に出され、1815年に同地でなくなった。
残酷にも、死亡と同時に、解剖学者G・クヴィエが解剖し、パリ人類博物館に、サラの骸骨、脳・性器のホルマリン漬け、蝋人形が作られて、1974年まで展示されたと言うのである。
イギリスの意思で、1964年から獄舎に長い間収監されていたネルソン・マンデラが釈放され、1994年に南アフリカの民主化が実現し、サラの身体の変換を求める声が沸きあがり、フランス政府もこれに抗し切れず、返還なって、2002年8月9日に、伝統に則り故郷の地・南アフリカ東ケープのハンキーに埋葬された。
長い間、南アフリカは、アパルトヘイトで人種差別が激しかったにしても、それとは関係なく、サラは、英仏人からは、サルか人間かの境の動物同様に扱われていたと言うことが問題で、彼らの人道主義とか人権尊重とか大きなことを言っても、その程度の低俗さであったのである。
私が、子供の頃、もう50年以上も前のことだが、世界地理の本に、この口絵写真の絵のように、ホッテントットの女性は、お尻が飛び出しているのだと書いてあったし、半信半疑だったが、学校でもそう習った記憶がある。
マンデラについては、ロンドンで何度もイギリス政府に対するマンデラ開放の激しいデモを見ていたが、ガンジーに対するイギリス政府の態度は完全にイギリスの方が間違っていたと確信していたので、マンデラの場合も同じことだと思ってイギリス人と激しく渡り合ったことがある。
一方、アメリカに居たのは、1972年から2年間だったが、キング牧師の大変な努力で、1964年に公民権法が制定されていたにも拘わらず、公民権運動に不快感を示し、人種隔離政策を執拗に唱えていたジョージ・ウォーレス・アラバマ州知事が、大統領選挙に出るなど、まだまだ、黒人やマイノリティ国民に対する白人アメリカ人の差別意識は高かったのを覚えている。
また、この時、アメリカ軍が北爆を停止しヴェトナムから撤退を始めたが、まだ、激しい戦争は続いていたし、アメリカ人のヴェトナム人に対する人権尊重意識などさらさらなく、アジア人蔑視感覚は濃厚であったし、これに懲りず、同じことをイラクで繰り返している。
余談だが、メキシコ・シティで、闘牛を見ていた時、隣にいた若いアメリカ人のカップルが、マタドールがトロに止めを刺すのを見て、見ていられないと目を覆ったので、君たちは同じことをヴェトナムでしているではないかと言ったら、「あれは悪夢だ。言わないでくれ。」と顔を伏せたのを思い出した。
アメリカには、今でも、クー・クルックス・クランと言う極端な白人至上主義の集団があるし、ドイツでも、ネオナチ集団が活動していると言うことだが、世界歴史は、20世紀の後半から新世紀の幕開けに向かって、大きく、民主化平等化への道を進み始めている。
オバマ大統領の登場が、新しい時代の到来を告げる歴史の大転換だと言われているが、必然の結果であり、驚くべきことではないと思うが、しかし、随分時間がかかってしまったとつくづく思う。
私自身もアジア人であり、日本人なので、欧米では自分のアイデンティティについて随分思い知らされたし強烈に意識したことがある。
しかし、幸いと言うべきか、日本が上り調子で、国力が隆盛を極めていた1990年代前半までの海外での生活および仕事だったし、アメリカが私自身に高等教育を与えてくれていたので、欧米人とは、機会があれば、徹底的に、文明論や世界観など持論を展開して来た。
相手が分かったか分からなかったか、そのことも大切だが、自分たちの拠って立つアイデンティティに誇りを持って、自分たちの歴史、文化、伝統などの尊さを語ることの大切さをかみ締めていたのである。
日本人である我々は、このように世界に誇るべ偉大な遺産を継承しており、国力も充実していて幸いだが、人類発祥の地であるブラック・アフリカは、まだまだ、大変な苦難の中にある。
永原陽子教授は、アフリカ先住民の歴史を研究しながら、自らの歴史を記録のなかった/できなかった人々の歴史の回復のために努力を続けていると話を締めくくった。
久しぶりに、感動的な講演を聴いた。
学術研究の最前線をやさしく開設すると言うのが狙いだが、聴講生の殆どは、四大学(東京外大、東京工大、一橋大、東京医科歯科大)のOBと思しき老紳士で占められ、水準の高い非常に感銘深い講演会であった。
そのうちの一つの講座であるが、東京外大の永原陽子教授が、アフリカの歴史から、如何に、これまで黒人たちの人権が無視されて来たか、そして、現在、少しづつグローバリゼーションの激しい潮流の中で人格を認めれつつある現状を、
一人の南アフリカの先住民コイコイ人(ホッテントット)女性サラ・バールトマンの悲しくも残酷な人生を紐解きながら語った。
サラは、1789年生まれで、白人の農場で働いていたが、1810年に、ロンドンへ連れて来られて、「ホッテントットのヴィーナス」として見世物に出され、ピカデリー広場でのショーにイギリス人がわんさと押しかけマスメディアに好奇の記事が書かれたと言う。
更に、1814年にパリに移され、ここでも見世物に出され、1815年に同地でなくなった。
残酷にも、死亡と同時に、解剖学者G・クヴィエが解剖し、パリ人類博物館に、サラの骸骨、脳・性器のホルマリン漬け、蝋人形が作られて、1974年まで展示されたと言うのである。
イギリスの意思で、1964年から獄舎に長い間収監されていたネルソン・マンデラが釈放され、1994年に南アフリカの民主化が実現し、サラの身体の変換を求める声が沸きあがり、フランス政府もこれに抗し切れず、返還なって、2002年8月9日に、伝統に則り故郷の地・南アフリカ東ケープのハンキーに埋葬された。
長い間、南アフリカは、アパルトヘイトで人種差別が激しかったにしても、それとは関係なく、サラは、英仏人からは、サルか人間かの境の動物同様に扱われていたと言うことが問題で、彼らの人道主義とか人権尊重とか大きなことを言っても、その程度の低俗さであったのである。
私が、子供の頃、もう50年以上も前のことだが、世界地理の本に、この口絵写真の絵のように、ホッテントットの女性は、お尻が飛び出しているのだと書いてあったし、半信半疑だったが、学校でもそう習った記憶がある。
マンデラについては、ロンドンで何度もイギリス政府に対するマンデラ開放の激しいデモを見ていたが、ガンジーに対するイギリス政府の態度は完全にイギリスの方が間違っていたと確信していたので、マンデラの場合も同じことだと思ってイギリス人と激しく渡り合ったことがある。
一方、アメリカに居たのは、1972年から2年間だったが、キング牧師の大変な努力で、1964年に公民権法が制定されていたにも拘わらず、公民権運動に不快感を示し、人種隔離政策を執拗に唱えていたジョージ・ウォーレス・アラバマ州知事が、大統領選挙に出るなど、まだまだ、黒人やマイノリティ国民に対する白人アメリカ人の差別意識は高かったのを覚えている。
また、この時、アメリカ軍が北爆を停止しヴェトナムから撤退を始めたが、まだ、激しい戦争は続いていたし、アメリカ人のヴェトナム人に対する人権尊重意識などさらさらなく、アジア人蔑視感覚は濃厚であったし、これに懲りず、同じことをイラクで繰り返している。
余談だが、メキシコ・シティで、闘牛を見ていた時、隣にいた若いアメリカ人のカップルが、マタドールがトロに止めを刺すのを見て、見ていられないと目を覆ったので、君たちは同じことをヴェトナムでしているではないかと言ったら、「あれは悪夢だ。言わないでくれ。」と顔を伏せたのを思い出した。
アメリカには、今でも、クー・クルックス・クランと言う極端な白人至上主義の集団があるし、ドイツでも、ネオナチ集団が活動していると言うことだが、世界歴史は、20世紀の後半から新世紀の幕開けに向かって、大きく、民主化平等化への道を進み始めている。
オバマ大統領の登場が、新しい時代の到来を告げる歴史の大転換だと言われているが、必然の結果であり、驚くべきことではないと思うが、しかし、随分時間がかかってしまったとつくづく思う。
私自身もアジア人であり、日本人なので、欧米では自分のアイデンティティについて随分思い知らされたし強烈に意識したことがある。
しかし、幸いと言うべきか、日本が上り調子で、国力が隆盛を極めていた1990年代前半までの海外での生活および仕事だったし、アメリカが私自身に高等教育を与えてくれていたので、欧米人とは、機会があれば、徹底的に、文明論や世界観など持論を展開して来た。
相手が分かったか分からなかったか、そのことも大切だが、自分たちの拠って立つアイデンティティに誇りを持って、自分たちの歴史、文化、伝統などの尊さを語ることの大切さをかみ締めていたのである。
日本人である我々は、このように世界に誇るべ偉大な遺産を継承しており、国力も充実していて幸いだが、人類発祥の地であるブラック・アフリカは、まだまだ、大変な苦難の中にある。
永原陽子教授は、アフリカ先住民の歴史を研究しながら、自らの歴史を記録のなかった/できなかった人々の歴史の回復のために努力を続けていると話を締めくくった。
久しぶりに、感動的な講演を聴いた。