熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国際安全規格のグローバルな潮流

2008年11月01日 | 経営・ビジネス
   日経と日本電気制御機器工業会主催の「ものづくり安全最前線」シンポジウムに参加し、都合で、基調講演「国際安全規格のグローバル潮流と法規制遵守のためのリスクアセスメント実施の現状」だけ聴講した。
   講演者は、IEC(国際電気標準会議)におけるACOS(安全諮問委員会)のフリードリッヒ・ハーレス氏で、元シーメンスのこの方面の統括部長であった人である。
   私など、全くの門外漢ではあるが、工業製品、特に電気機器関係の安全対応がどのような現状にあるのか、垣間見たくて聴講に出かけたのである。
   
   ハーレス氏が、見せてくれたビデオのワンカットが強烈な印象を与えた。
   ドイツのパーキングの出入り口であろうか、前を人が通り抜けるのを待って、駐車場のバーが開き、素晴らしいベンツが先に出て、その後を大きなエンジン音を立ててフェラーリが待機している。
   ところが、フェラーリが進み始めたところで、急に上に上がったバーが、勢い良く、運転手の頭上に下りた瞬間画面が消えた。
   完璧だった筈の自動のバーが、フェラーリの轟音に誤作動したのか、或いは、オープンカー故に、自動車の屋根を感知出来なかったのか。
   とにかく、何かの理由が原因で、自動制御のゲートのバーが誤作動して、運転手を直撃してしまったのである。

   もう一つ興味深かったのは、From Hazard to Harmの4枚の絵だが、窓際に置かれた植木鉢があり、これがHazard(危険)。
   下を人が歩き、車が行き交う状態で、これがHazardous Situation。
   窓を開けた瞬間に植木鉢が落下、これがHazardous Event。
   落ちて来た植木鉢が車の上に落下、これがHarm(損傷・危害)。  
   Harmとは、IECの定義によると、人々の健康に加えられた身体的危害や損傷または環境のプロパーティに与えるダメッジと言うことのようで、このHarmを引き起こすHazardousな原因を取り除くことが重要なのである。

   安全とは、社会通念上どうしても受容不可能なリスクから開放されることで、このリスクとは、Harm発生の可能性とHarmの深刻性のコンビネーションで決まる。
   リスク削減のために防御手段が取られるが、それでも避け得ないその他のリスク(redisual risk)が残る。リスク削減の過程で、この残余のリスクが、社会通念上許されるリスク(torerable risk)より少なくなれば少ないほど、リスク要因が適度に消滅したとして、その製品が安全だと看做されると言うのである。
   難しい話はともかく、プロダクト・スタンダードを確立するために、システマチック、すなわち、体系的なリスク・アセスメントを行うことが如何に大切かと言うことで、その規格のグローバル・スタンダード作りに腐心しているという事であろうか。

   ハーレス氏は、安全とは決してリスク・ゼロではないと協調していた。
   しかし、工業製品が安全かどうかは、体系的なリスク・アセスメントで判断されるべきである。
   また、そのプロダクト・スタンダードは、然るべき機関のテクニカル・コミティで決すべきであり、行政においても、現在主流を占めている国際的な基準であるISOやIECの規則に則って安全管理を行うのが望ましいと言う。

   最後に、ウエルナー・フォン・シーメンスの言葉を引用して話を締めくくった。
   ”事故回避は、法的な規制ではなく、人間としての義務であり良き経済的センスの寄って立つ掟であると考えなければならない。”
   いくらシステマチック・リスク・アセスメントを完璧にして立派なプロダクト・スタンダードを確立しても、所詮は生身の人間の世界のこと。
   安全は、人間自身が自分自身で守らなければならないと言うことであり、法律や規制以前の価値観の涵養が大切で、市民社会、シビル・ローの世界をもっともと豊かにしない限り、不安から開放されないと言うことであろう。

   話は違うが、先日書いた「あたたかい医療と言葉のちから」で、裁判官でもあった中京大の稲葉教授が、面白い例えで「医療者の論理と患者の論理」を語った。
   コインの表裏を当てるゲームで、表が出れば100万円貰え、裏が出ると80万円支払う。1回しか賭けが出来ない時賭けるかどうか、10回、100回賭けられる時は、この賭けをするか。
   患者は、1回に賭けるかどうか、医療者は、10回、100回賭けるかどうかを考えると言う。
   患者にとっては、生きるか死ぬか、たった1回の手術で運命が決まるのだが、医療者にとっては、あくまで多くの患者の手術のことであり、10回、100回、そのうち何回成功するかと言う確率の問題なのである。
   案外、工業製品の安全についても、顧客にとっては買った製品そのものが総てなのだが、生産者にとっては、マスの概念であるから、そんなところにある双方の論理上のギャップに、安全についての落とし穴があるのではないかと言う気がしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする