熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

吉例顔見世大歌舞伎・・・藤十郎の「廓文章 吉田屋」

2008年11月30日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座の顔見世興行は、藤十郎や仁左衛門が主役を演じていた舞台が、「廓文章 吉田屋」と「寺子屋」二本あったので、幾分、江戸歌舞伎と上方歌舞伎の合体と言う感じがした。
   役者が違うと、当然、お家芸としての芸の伝承があるので、がらりと演出に差が出てくるのだが、今回、廓文章で、同じ上方でも、鴈治郎家と、先に観た仁左衛門家とでも、大きな差があることを知って興味深かった。

   仁左衛門の方は、幾分芝居的な要素が強いのだが、鴈治郎型の方は、本来の文楽に近い演出の所為か、藤十郎の伊左衛門も魁春の夕霧も台詞は少なく、舞うような仕草で演じており、視覚芸術的な美に比重を置いている。
   夫々の伊左衛門で二回づつ観劇しているのだが、その度毎に、新鮮な楽しさを感じさせてくれる。

   前回の仁左衛門は、どちらかと言えば、一寸知能的に弱いなよなよとした大店のぼんぼんと言った感じだったが、今回の藤十郎の場合には、育ちの良い遊び人のどら息子と言う雰囲気で、夕霧が病気だと聞いて心配で心配で、京都から、カネもないのにノコノコと紙衣を着て歩いて来たと匂わせるあたりから、堂に入っていて、典型的な大阪の道楽・放蕩息子を演じていた。

   先々代の仁左衛門が、80歳を越してから、NHKに拝み倒されて、古典芸能鑑賞会に出た時の心境を、随想に残している。
   大坂の豪商の若旦那でまだぼんぼんの気の抜けない伊左衛門を演じるには、肉体的にも体力的にも自ずと限界があり、若い頃のような軽やかな動きはとても望めないが、お客様の期待に応えた満足な舞台を勤めなくてはならない・・・心配が高じて、伊左衛門の甲高い声が出なくなった。等と、あの大歌舞伎役者が、初舞台の時のように、その苦衷と狼狽振りを吐露している。
   幕が開き床の宮園節の三味線を聞いているうちに、もうなにもかも忘れて伊左衛門になりきることが出来て、無事に幕がおりるとき、初めて拍手が耳に入ったと言うのである。
   私は、この仁左衛門は、映画でしか知らないので、息子のの仁左衛門の伊左衛門の舞台を重ね合わせて想像するしかないのが残念である。

   その点、ほぼ、四捨五入すれば80歳に手が届く筈の藤十郎の方は、まだまだ、若さ凛々で、さすが、70を超えても舞妓と浮名を流して、ガウン治郎とフォーカスされるほどの筋金入りの人間国宝であるから、芸にも磨きが掛かっていて、瑞々しさは後退していても、執念のようなラブハンター心が垣間見えて面白い舞台であった。

   夕霧を演じた魁春が、実に美味い。
   錦絵の様に、これほど美しく絵になる魁春を観たことがない。   

   善意そのものの夫婦を演じた吉田屋の主人喜左衛門の我當と女房おきさの秀太郎の至芸については、コメントの必要もないと思うし、若い者松吉の亀鶴もそうだが、やはり、上方歌舞伎で培われてきた芸の伝統と重さを感じざるを得ない。
   そして、この舞台ほど、竹本連中と常磐津連中の語り・音曲の素晴らしさを感じさせてくれる舞台も少ないと思っている。
   
   今月の舞台は、「盟三五大切」の薩摩源五兵衛と「寺子屋」の松王丸を演じた仁左衛門の活躍が出色であった。
   一度に二役を演じず、一役に集中するのだと言っていた仁左衛門が、最近では、人気に押されてか、出が多くなった。
   どんな舞台でも器用に、水準をはるかに越えた演技を披露しているのだが、今、役者として一番充実した時期なので、器用貧乏に気をつけて、仁左衛門しか演じられない決定版と言うべき至芸を残して欲しいと思っている。
コメント
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