熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

錦秋の鎌倉を歩く(3)~建長寺

2008年11月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   建長寺は、山がちの鎌倉にあって比較的平面のあるところに建てられている所為なのか、かなりオープンで、豪壮な建築群が素晴らしい。
   総門を入ると、三門まで参道がやや斜めに導線が取られていて、大きな三門の背後に仏堂と法堂、そして、方丈が並ぶ姿は、中々、壮観で、流石に、鎌倉五山の筆頭である禅寺の貫禄である。
   鎌倉に、何故、禅寺が多いのか、色々言われているが、当時政治の中心として確固とした地歩を築き上げた鎌倉幕府にとっては、やはり、海外渡来の最新の教えであった禅宗を取り入れて大寺院を建立することは、国威発揚に似た権威を誇示する為には格好の手段であり、既成仏教や京の公家勢力に対して対等にわたり合おうとした大きな野心があったからであろう。

   建長興國禅寺と大書された巨大な看板を掲げた三門の背後に、この寺の本尊地蔵菩薩坐像が安置されている仏堂が見える。
   その背後にある法堂より小ぶりの瓦葺の建物だが、芝の増上寺にあった徳川二代将軍秀忠の夫人小督の方の霊屋を移築したとかで、中々優雅な建物であり、内陣の装飾なども凝っていて美しい。
   天井には、小さく碁盤目状に仕切られた金地の枠毎に絵が描かれていて、中央の折り上げ天井には、8弁の極彩色で飾られた美しい天蓋が下げられており、また、正面の欄間には素晴らしい鳳凰の透かし彫り、左右の欄間には大和絵が描かれているなど、褪せたとは言え綺麗な彩色が残っていて、禅寺とは思えない優雅さである。

   本尊の地蔵菩薩は、左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つお姿は、おなじみの地蔵像だが、坊主頭と白目を鮮やかに彩色した切れ長の両眼の印象を除けば、蓮座に座られた他の菩薩などと殆ど変わらない堂々とした仏像で、まだ、彩色が残っているので、お堂にうまくマッチしている。
   内陣の天蓋が堂の中央にあり、少し後退して鎮座まします地蔵尊の上には天蓋がない。光背は、中抜きの輪型の板で、上部・左右の3箇所に宝珠をあしらったシンプルなもので、背後の壁に金地の板が設えられている。
   背後の欄間の下に「前和尚」の名前を書いた表札がずらりと貼り付けられているのが面白い。

   仏堂の後にある法堂は、住職が仏に代わって説教するお堂で、本来、仏像は祀らないようだが、現在、千手観音菩薩坐像が安置されており、そのお前立ちのような形で、パキスタンから贈られたと言うブロンズ製の釈迦苦行像が置かれている。(口絵写真)
   千手観音は、白目が彩色されて首飾りが描かれているが、木の地肌そのままの非常にモダンな仏像で、京都や奈良の古寺で見る重厚で哲学性を帯びた美しいお姿とは大分印象が違っており、
   お腹が極端に凹んであばら骨が露出して、骨と皮だけになっても、毅然としたお姿で瞑想に耽るお釈迦様の苦行像との対象が、いかにもちぐはぐで面白い。

   この苦行像は、ラホール美術館にあるオリジナルを愛知万博のために複製した唯一のレプリカで、万博後、建長寺に寄贈されたと言うことだが、昔から知っていたので、間近で拝見できるのは、正に感激であった。
   この仏像には、一寸した思い出がある。サウディ・アラビアのリアドには何度か出張していて、一度だけ、乗り継ぎのために、パキスタンのカラチ空港で数時間の待ち時間があったので、国立カラチ博物館に行けば、この苦行像のような仏像なり、仏教関係の遺産が見られるのではないかと思って、観光も兼ねようとタクシーに乗って街に出た。

   しかし、残念ながら、カラチ博物館は、建物だけはまずまずだったが、展示されているものは極めて貧弱で、目ぼしい作品など何もなかった。
   欧米の博物館の素晴らしさを見慣れていたので、世界文明の十字路であり歴史の宝庫であるパキスタンの中央博物館だから、凄い作品があるだろうと思っていたのは幻想で、目ぼしい遺産の殆どは悉く欧米に持ち去られており、民度の低さもあって博物館の維持管理などに注力する余裕などなかったのである。

   その前にジャカルタ博物館を訪れてジャワ原人の化石を見るなどしていたのだが、こちらの方は、かなり充実していた。
   先年、ブッシュがバグダッドを占領した時に、バグダッド美術館が襲われて、文化遺産が流出したと言う報道がなされて胸が痛んだのだが、人類の文化遺産を守ると言うのは大変なことなのである。
   日本でも、明治代の廃仏毀釈で、多くの仏像などの貴重な遺産が失われたし、馬鹿な戦争をして国土を焦土と化したのみならず、戦後の荒廃時期には、今の国宝などでも、塔など建物は叩き売られそうになったり、仏像などは始末に困って倉庫や地面に転がされていたと言うのだから、日本人の美意識なり価値基準なども自慢できたものでもないと言うことであろうか。

   ところで、この法堂には、創建時から天井画がなかったので、鎌倉出身の画家で、京都建仁寺に天井画・双龍図を描いた小泉淳氏の作画によるモノトーンの水墨画で雄渾かつ迫力のある雲竜図が、1997年に掲げられた。
   これまでに、何箇所かのお寺等で、龍の天井画を見た記憶があるが、この龍は、5本の爪で玉を握り締めている。
   龍の5本の爪は、中国の皇帝に許された特権で、朝鮮の王室には爪4つ、日本には爪3つしか許されなかったと言われているが、既に中国には皇帝はなく、私の勝手でしょ、と言うことになったのであろうか。中国の皇帝のものでない陶器などの骨董の龍の絵の爪は、確かに4つであったような気がする。

   一番奥にある建物が、方丈で、その前にある唐破風の唐門が、素晴らしい浮き彫り彫刻で装飾されていて美しい。
   方丈の裏庭が、これまた素晴らしく、植栽は極限られ、大きな池の周りには芝が一面に張られただけの非常にオープンな空間が、背後の山を借景に背負って広がっていると言う豪壮さで、京都の緻密で計算し尽くされた精神性の高い庭園とは違っているが、この方が、縁側で静かに瞑目して思いを馳せる方が哲学的かも知れない。

   境内には、もう一つ、円覚寺に似た立派な国宝の梵鐘がある。
   鐘楼が、三門横の広場に並んで建っているので有り難味が薄れるが、優雅な形の鐘で親しみを覚える。

   1時過ぎに約束があったので、鶴岡八幡宮の方に回る時間がなく、小町通りの雑踏を通り抜けて帰途に着いた。
   4時間ほどで、都合10キロほどを歩いた錦秋の鎌倉散歩だったが、京や奈良の歴史散歩とは一寸趣の変わった楽しみ方が出来たと思っている。
   歩いた所が偶々古社寺であったと言うことで、宗教がどうだと言った感覚全く無しでの散策なので、何時ものように、足の向くまま気の向くままであった。

   
コメント
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