中村メイコの新著「夫の終い方 妻の終い方」を読んでいるのだが、軽妙洒脱・ユーモアたっぷりで、とにかく面白い。
「お二人様の老後」を生き抜く知恵と悪知恵 「妻」を「私」に戻してみたら、夫が嫌な男でなくなります。 と言ったサブタイトルのついた本だが、80歳と78歳になった神津サンとメイコ夫妻のほのぼのとした生活空間が見えるようで興味津々でもある。
7年前に、メイコの「五月蝿い五月晴れ」と言う本を読んで、このブログで、”中村メイコの笑劇場・・・泣き笑いの人生が爽やか”を書いて、初夜の明けた朝の傑作珍妙な二人の挨拶などを紹介したのだが、この本も、読みながら、なるほどと頷きつつ笑いをかみ殺すのに苦労するほど楽しませてくれる。
ところで、私が感想を書けそうなのは、このブログのタイトルの「植物といっしょに暮らす素晴らしさ」と言うところだと思うので、メイコさんの言葉を借りながら、考えてみたい。
神津宅のリビングは、三階まで吹き抜けで、30年前に植えたベンジャミンが、絡み合って天井まで幹を伸ばして生い茂っていて、神津サンは、この大木の下で嬉しそうにご飯を食べ、メイコさんは、若い頃の木登りを思い出しながら、年寄りには植物が必要だと感じていると言う。
鉢植えの水遣りや、切り花の水替えに注意しなければならないが、物忘れの防止にもつながり、生活にもリズムが生まれ、一寸した運動にもなるもので、それに、何よりも大切なのは、「自分にはまだ、自分以外のモノを育てられるんだ」と言う自信が生まれること。歳を取ると自信を失う場面が多く、一つでも自信を持つことは、生きる元気に繋がるのだと言う。
チューリップを植えたが、芽が出たためしがないし、ガーデニングは出来ないけれど、肉代を節約しても、お金もないのに花を買ってと娘たちに叱られても、花のない生活など考えられないので、部屋に切り花は欠かしません。老いても子には従いません。と言う。
さて、我が家だが、家内が花が好きなこともあって、私が気づいた頃から花が部屋に飾られていたと思うのだが、特に、オランダに行ってから、そして、イギリスに移って、やはり、花の国で、花が随分安くてふんだんにあったこともあって、家の中のあっちこっちに、綺麗な切り花が活けられていた。
イギリスのキューガーデンの家には、大きなバックヤードがあって、巨大なサクランボの木を中心に、季節には、綺麗な花が咲いていたので、イングリッシュ・ガーデンの雰囲気を楽しむことが出来た。
私が花に興味を持ちだしたのは、やはり、オランダに行ってからで、チューリップで有名なキューケンホフ公園やリセの巨大なチューリップ畑を訪れたり、花を訪ねて、運河道や田舎道を、車で走った。
イギリスに行ってからは、キューガーデンへカメラを抱えて通ったし、イギリス各地の名園や植物園などを訪れたが、この時は、花と言うよりも、素晴らしいイギリスのガーデンの方に興味があった。
こんな経験をして帰国したのだから、少し、雰囲気が変わって荒れていたわが庭を手入れして、ツバキなどの花木を中心に花を植えて、春秋には球根や草花を植えるなどして、少しずつ、花の咲く庭を作って行った。
大体、一年を通じて、何らかの花が咲いているか、木の実が成っているので、いつでも、庭に出て切れば、花瓶に挿す材料に不足はないので、特別な時を除けば、切り花を買うことがなくなったのである。
この口絵写真は、花富貴と言うツバキで、二枝ほど切って、無造作に挿してあるだけなのだが、かなり、雰囲気が出ていて鑑賞に耐えている。
今は、侘助ツバキが咲いているので、こじんまりと楽しんでいるのだが、4月に入って、庭のツバキが咲き誇って来ると、友人の増田兄に頂いた大きな花瓶に一杯ツバキを活けて、正に、ツバキの饗宴を楽しむ。
ツバキは、花弁がすぐに落ちたりするので、命は短いけれど、茶花のように蕾を活けるのではなく、一番美しく咲き切った時の本当の美しさを楽しむべきだと思っているので、やはり、自分の庭で育てない限りダメなのである。
これは、やはり、生け花にはやや不向きのイングリッシュローズやフレンチローズでも言えることで、あの得も言われぬ嫋やかで、清楚で、そして、豪華な匂うような美しさは、正に、切り花にして、気の利いた花瓶に活けた時にこそ味わえるのであって、自分で育てなければ、その喜びを楽しめないと思っている。
このことは、梅や桜などの花木の花でも、路傍に咲く野菊や菫などにも言えることで、綺麗に咲いている花を摘んで、活けた瞬間が、一番美しいのは間違いない。
私が住んでいる千葉は、田舎なので店で売られている花の値段はかなり安いが、それにしても、日本は、何故、こんなに切り花の値段が高いのか、メイコさんが、花屋ですてきな花を見たら買ってしまい、娘たちによく叱られると言う気持ちも良く分かる。
オランダのアルスメール(Aalsmeer)の世界最大規模の花卉・観賞用植物の取引所である生花中央市場では、毎日、世界中から集まってくる花をセリにかけて、当日、直に、隣のスキポール空港から世界中に向かって発送されて行く。
日本の農業はTPP反対と言うのだが、大企業のオフイスビルの豪華なフロントロビーにも、造花や造木が飾られているような寂しい状態では、先が思いやられると言うものである。
日本人は、世界一、自然を愛して花鳥風月を愛でる国民である筈。
私のような武骨ものでも、少しずつ芽を吹いて行き咲き誇って行く花の姿を見ていて感激するのだから、メイコさんが言うように、年寄りでなくても花が必要であろうと言うことである。
それに、最近、健気にも芽を出して咲く花の美しさを見ていて、その奇跡的な自然の摂理を感じて、実に愛しくなって、この植物たちのためにも、共同の棲家である宇宙船地球号を環境破壊から守らなければならないと本当に思うようになっている。
「お二人様の老後」を生き抜く知恵と悪知恵 「妻」を「私」に戻してみたら、夫が嫌な男でなくなります。 と言ったサブタイトルのついた本だが、80歳と78歳になった神津サンとメイコ夫妻のほのぼのとした生活空間が見えるようで興味津々でもある。
7年前に、メイコの「五月蝿い五月晴れ」と言う本を読んで、このブログで、”中村メイコの笑劇場・・・泣き笑いの人生が爽やか”を書いて、初夜の明けた朝の傑作珍妙な二人の挨拶などを紹介したのだが、この本も、読みながら、なるほどと頷きつつ笑いをかみ殺すのに苦労するほど楽しませてくれる。
ところで、私が感想を書けそうなのは、このブログのタイトルの「植物といっしょに暮らす素晴らしさ」と言うところだと思うので、メイコさんの言葉を借りながら、考えてみたい。
神津宅のリビングは、三階まで吹き抜けで、30年前に植えたベンジャミンが、絡み合って天井まで幹を伸ばして生い茂っていて、神津サンは、この大木の下で嬉しそうにご飯を食べ、メイコさんは、若い頃の木登りを思い出しながら、年寄りには植物が必要だと感じていると言う。
鉢植えの水遣りや、切り花の水替えに注意しなければならないが、物忘れの防止にもつながり、生活にもリズムが生まれ、一寸した運動にもなるもので、それに、何よりも大切なのは、「自分にはまだ、自分以外のモノを育てられるんだ」と言う自信が生まれること。歳を取ると自信を失う場面が多く、一つでも自信を持つことは、生きる元気に繋がるのだと言う。
チューリップを植えたが、芽が出たためしがないし、ガーデニングは出来ないけれど、肉代を節約しても、お金もないのに花を買ってと娘たちに叱られても、花のない生活など考えられないので、部屋に切り花は欠かしません。老いても子には従いません。と言う。
さて、我が家だが、家内が花が好きなこともあって、私が気づいた頃から花が部屋に飾られていたと思うのだが、特に、オランダに行ってから、そして、イギリスに移って、やはり、花の国で、花が随分安くてふんだんにあったこともあって、家の中のあっちこっちに、綺麗な切り花が活けられていた。
イギリスのキューガーデンの家には、大きなバックヤードがあって、巨大なサクランボの木を中心に、季節には、綺麗な花が咲いていたので、イングリッシュ・ガーデンの雰囲気を楽しむことが出来た。
私が花に興味を持ちだしたのは、やはり、オランダに行ってからで、チューリップで有名なキューケンホフ公園やリセの巨大なチューリップ畑を訪れたり、花を訪ねて、運河道や田舎道を、車で走った。
イギリスに行ってからは、キューガーデンへカメラを抱えて通ったし、イギリス各地の名園や植物園などを訪れたが、この時は、花と言うよりも、素晴らしいイギリスのガーデンの方に興味があった。
こんな経験をして帰国したのだから、少し、雰囲気が変わって荒れていたわが庭を手入れして、ツバキなどの花木を中心に花を植えて、春秋には球根や草花を植えるなどして、少しずつ、花の咲く庭を作って行った。
大体、一年を通じて、何らかの花が咲いているか、木の実が成っているので、いつでも、庭に出て切れば、花瓶に挿す材料に不足はないので、特別な時を除けば、切り花を買うことがなくなったのである。
この口絵写真は、花富貴と言うツバキで、二枝ほど切って、無造作に挿してあるだけなのだが、かなり、雰囲気が出ていて鑑賞に耐えている。
今は、侘助ツバキが咲いているので、こじんまりと楽しんでいるのだが、4月に入って、庭のツバキが咲き誇って来ると、友人の増田兄に頂いた大きな花瓶に一杯ツバキを活けて、正に、ツバキの饗宴を楽しむ。
ツバキは、花弁がすぐに落ちたりするので、命は短いけれど、茶花のように蕾を活けるのではなく、一番美しく咲き切った時の本当の美しさを楽しむべきだと思っているので、やはり、自分の庭で育てない限りダメなのである。
これは、やはり、生け花にはやや不向きのイングリッシュローズやフレンチローズでも言えることで、あの得も言われぬ嫋やかで、清楚で、そして、豪華な匂うような美しさは、正に、切り花にして、気の利いた花瓶に活けた時にこそ味わえるのであって、自分で育てなければ、その喜びを楽しめないと思っている。
このことは、梅や桜などの花木の花でも、路傍に咲く野菊や菫などにも言えることで、綺麗に咲いている花を摘んで、活けた瞬間が、一番美しいのは間違いない。
私が住んでいる千葉は、田舎なので店で売られている花の値段はかなり安いが、それにしても、日本は、何故、こんなに切り花の値段が高いのか、メイコさんが、花屋ですてきな花を見たら買ってしまい、娘たちによく叱られると言う気持ちも良く分かる。
オランダのアルスメール(Aalsmeer)の世界最大規模の花卉・観賞用植物の取引所である生花中央市場では、毎日、世界中から集まってくる花をセリにかけて、当日、直に、隣のスキポール空港から世界中に向かって発送されて行く。
日本の農業はTPP反対と言うのだが、大企業のオフイスビルの豪華なフロントロビーにも、造花や造木が飾られているような寂しい状態では、先が思いやられると言うものである。
日本人は、世界一、自然を愛して花鳥風月を愛でる国民である筈。
私のような武骨ものでも、少しずつ芽を吹いて行き咲き誇って行く花の姿を見ていて感激するのだから、メイコさんが言うように、年寄りでなくても花が必要であろうと言うことである。
それに、最近、健気にも芽を出して咲く花の美しさを見ていて、その奇跡的な自然の摂理を感じて、実に愛しくなって、この植物たちのためにも、共同の棲家である宇宙船地球号を環境破壊から守らなければならないと本当に思うようになっている。