熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・第53回式能

2013年02月18日 | 能・狂言
   今年も、能楽協会主催の式能を、国立能楽堂で観た。
   朝10時から夜の7時までの上演で、ワーグナーのリングなどの楽劇を鑑賞するくらいの充実度と緊張感の漂う素晴らしい舞台なのだが、残念ながら、627席の客席が完全には埋まらない。
   式能とは、江戸時代に、幕府の行事や祝典、将軍家の慶事などの際に、江戸城本丸表の舞台で翁(おきな)付き五番立ての能が儀式として催されたのだが、現在では、この能楽協会などの主催するシテ方五流出演の五番立ての催しと言うことのようで、今回も、宝生流宗家の宝生和秀の翁を皮切りに、高砂、経政、吉野天人、枕慈童、飛雲の神・男・女・狂・鬼の五番立ての能に、福の神、蝸牛、箕被、棒縛の狂言4曲が、演じられた。
   普段、この能楽堂では、能1曲狂言1曲の公演を鑑賞しているので、5回分を一挙に見たようなものだが、客席の椅子が良くないのか腰が痛くなるくらいで、能狂言鑑賞経験初歩の私であるにも拘わらず、最後まで、それなりに楽しむことが出来た。

   能については、私自身、感想を述べる程の才覚もないので、まず、人間国宝3人が登場した非常に密度の高かった狂言について、印象などを記して見たいと思っている。
   私がこれまでに見たのは、蝸牛だけだったので、残りの3曲が、興味深った。

   最初の「福の神」だが、シテ/福の神(大藏吉次郎)のかけている面が、実に優雅に笑っている福与かな表情で、この神は酒好きであり、幸せな年越しを願いに来たアド/参詣人(善竹富太郎、大藏教義)に、今年は何故お神酒を供えないのかと言って催促したり、幸せになりたかったら、自分のような福の神に、お神酒やお布施をたっぷりと供せよと言う。
   二人が、福は内、福は内と豆を撒いていると、大笑いしながら福の神が登場する。
   二人に向かって、富貴に成りたければ元手が要るのだと言うと、元手がないから神頼みに来たのだ応える。資金のことではなく心の持ちようだと、早起き・慈悲心・隣人愛・夫婦愛を説くのだが、最後に、「仏供を結構して、古酒を、嫌と言うほど盛るならば、(これを3回繰り返す)、富貴にしてやらねばなるまい。」と言って笑い飛ばす。
   笑う門には福来ると言うことであろうが、如何にも、地獄の沙汰も金次第と言った感じの、とぼけたユーモアが楽しく、酒を煽りながら真面目な声音で福の神を演じている吉次郎の可笑しみが笑いを呼ぶ。

   蝸牛は、かたつむりのことで、アド/主(高野和憲)が、祖父に蝸牛を与えれば長生きすると考えて、太郎冠者(万作)に、藪に入って蝸牛を取って来いと命じる。
   蝸牛を知らない太郎冠者が、主に聞くのだが、いい加減に聞いていて、蝸牛は頭が黒いと覚えていて、藪の中で寝ているシテ/山伏(萬斎)の頭が黒いので、蝸牛かと問いかける。
   悪戯心を起こした山伏は、腰に貝をつけているとか、角を出すかと聞かれて、適当に格好をつけて騙し通し、主の家まで、同道して行き、結局、山伏だと見破られるのだが、どんどんテンションが嵩じてリズミカルになり、山伏と太郎冠者の掛け合いや舞の面白さが格別で、万作萬斎父子の呼吸と言い、間合いと言い非常に調子の合った丁々発止で楽しませてくれる。
   太郎冠者が、主の指示するモノや仕事の中身を知らなかったり分からなくて、知ったかぶりをしたりして何かと失敗する狂言が多いのだが、今回の山伏は、先日の狂言「茸」のように修業不足で祈祷が全く通じないイカサマ山伏ではなく、善人を誑かす役回りになっているのが面白い。

   私が興味を持った狂言は、次の「箕被」である。
   連歌道楽に明け暮れるシテ/男(夫 東次郎)が、連歌の会の世話役になったので、準備をしてくれと頼むと、アド/女(妻 則孝)が、ただでさえ生活が苦しいのに、催すと言うのなら離縁してくれと頼むので、止むに止まれず離縁する。別れ際に、暇を求める印に何かくれと妻に言われた夫は、慣れ親しんだ箕を渡す。箕を被って去る妻の姿に、風情を感じて歌心を刺激された夫は、
   ”いまだ見ぬ、二十日の宵の三日月(箕被き)は”と詠むと、返歌を返さなければと、妻は、
   ”今宵ぞ出づる身(箕)こそつらけれ”と詠む。
   あまりの出来栄えの良さに感嘆した夫は、今までのことを詫びて、夫婦で連歌を楽しもうと、呼び戻して復縁の杯を上げる。
   元々、夫も妻も相思相愛で、別れたくないのだが、悲しいかな、生活が不如意で、趣味を通せば生きて行けない。
   連歌道楽ならまだ良いか、と言うことだが、何でも同じで、入れ込んで気違いになって後先を忘れてしまえば、どんな道楽も同じこと。しかし、一緒に連歌を楽しもうと言うところが泣かせる。
   この妻だが、親も連歌をしており、夫が前回の世話人当番の時は、親元から借りて来たのだが、いずれにしろ、耳学問とは言え、門前の小僧お経を習うと言う言葉通りに、連歌の才能が開花したのであろう。
   東次郎の、一直線の剛速球のような骨太の折り目正しい連歌好きの夫と、それに着きつ離れつ軽妙なタッチで応えている妻の則孝との醸し出す雰囲気が、何となく、ほんわかとした夫婦愛を示していて面白い。

   最後の「棒縛」は、歌舞伎でもお馴染みの舞台。
   留守中に、酒好きの太郎冠者(シテ/万蔵)と次郎冠者(アド/扇丞)に、酒を飲まれては困ると考えたアド/主(萬)が、太郎冠者を左右に伸ばした両手に棒を縛り、次郎冠者を後手に縛って出かけるのだが、結局、悪知恵の働く二人が、酒を飲んで酔っ払って謡い舞うところへ、主が帰ってきて怒るのを、逃げ回りながら棒で脅すと言う話である。
   手首が自由に動く太郎冠者が盃で酒をすくって次郎冠者に飲ませ、次に、次郎冠者に、盃を後手に持たせて、太郎冠者が飲むと言う寸法だが、いずれにしても、手首が動けば、雑作なく飲めると言うことである。
   しかし、最初は、太郎冠者は、自分で飲もうとして、無理に口を盃に近づけようとして前のめりになり、杯を煽って飲もうとすれば酒が顔に飛んで飲めず、四苦八苦するところが面白い。
   縛られた姿での小舞は、さす手・引く手を肩と顎で表現すると言うことだが、このあたりのコミカルさも楽しませてくれる。
   万蔵、扇丞のパンチの利いたアクションと謡と舞の素晴らしさも注目すべきだが、能楽協会会長でもある萬の元気溌剌とした質の高いエネルギー溢れる演技が感動的である。

   また、酒盛りの二人に後から近づいて来た主の顏が盃の酒面に映るところの謡は、能「松風」のパロディ版だと言うのだが、流石に、人気狂言曲で、小舞や謡を加えるなど色々と趣向を凝らした演出なり表現方法が使われていて奥が深い。

   ところで、「棒縛」については、狂言三人三様の「野村万作の巻」に、千作、万作、萬斎の3人の話が載っていて興味深い。
   この棒縛は、海外公演で最も演じられる曲のようで、萬が、「狂言 伝承の技と心」の中で、言語を超越して理解が得られ、日本の中だけでやっておれば、この曲の良さがそこまで認めることは出来なかったかもしれない。と語っている。
   海外に行く時には、棒が長いままではトランクに入らないので、三つ折れにして繋いで使うのだが、演技途中で、「右から狼藉者が打ってまいれば、これで受けまする」とやった瞬間、棒の一部が客席に勢い良く吹っ飛んでしまったとか、萬が、主人の姿が盃に映って吃驚して尻餅をついた途端に棒が折れたとか、千作も万作も、夫々失敗談を語っていて面白い。
   萬斎が語っていて興味深いのは、この曲の一番の主題は、「うれしや、ここに酒あり」と言う最後の謡で、酒を謳歌する庶民的なことではあるが、そこに第九の「歓喜の歌」のような大きさが出せれば「棒縛」は非常に大きな曲になる。だから最後の謡で締めくくるのは、うちの芸にとっては重要なんですね。と言っていることである。
   大蔵流では、和泉流ほど歌舞劇の匂いはしないようで、棒振りが変わっていて、シテは、次郎冠者だと言うことである。
   

   ところで、能の観世流の「吉野天人」は、小書「天人揃」によって、シテ(山階彌右衛門)以下6人の天人が登場して、舞台に3人、橋掛かりに3人揃って、豪華な舞を見せてくれて、実に華やかで美しい。
   高砂は、何回か観ているので、かなり楽しむことが出来たが、岩波講座には、経政と枕慈重くらいしか解説がなかったし、それに、何時ものように、ディスプレイの詞章表示が利用できなかったので、少し、私にはハードルが高かった感じであった。
   しかし、殆ど分からなかった昨年と比べれば、かなり、筋を追いながら雰囲気を楽しめるようになって来たので、上出来だと思っている。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする