熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

二月大歌舞伎・・・「新皿屋舗月雨暈」

2013年02月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎は、日生劇場である。
   この劇場は、50年前に、カール・ベーム指揮のベルリン・ドイツ・オペラでこけら落としを飾った素晴らしい劇場で、私は、歌舞伎はともかく、観劇には、最も素晴らしい劇場だと思っている。

   今回は、事故で休演していた染五郎の復活舞台で、幸四郎が公演前に口上を述べると言う特別な催しがあったが、噂に違わず、染五郎の晴れ姿は上々で、心なしか、一回り大きくなった感じで、「新皿屋舗月雨暈」の磯部主計之助の颯爽とした殿様然とした貫録と風格などは、堂々たる偉丈夫ぶりであった。

   この「新皿屋舗月雨暈」は、殆ど、後半の「魚屋宗五郎」だけで上演されることが多いのだが、今回は、前半の「弁天堂」から通し狂言で演じられたので、話の筋が良く分かって、その分、大いに楽しむことが出来た。
   旗本磯部主計之助(染五郎)が、愛妾お蔦(福助)を、悪臣岩上典蔵(大谷桂三)たちに騙されて、不義を働いたと信じて手打ちにし、それを知って激怒したお蔦の兄魚屋宗五郎(幸四郎)が、酒の勢いを借りて、磯部家に殴り込みをかけるのだが、家老浦戸十左衛門(左團次)の計らいで、真相を知った主計之助が、宗五郎に謝る。と言った話である。

   ここで大切なのは、お蔦の不義の原因となった閻魔堂での典蔵の悪行の場に、十左衛門が、出くわして、その経緯と家老失脚を狙って実権を握ろうとする悪行を知っているので、そのことと、宗五郎の直訴を関連付けて、十左衛門が、事前か、あるいは、宗五郎が酔いつぶれている間にか、主計之助に語ったと言う前提があるからこそ、宗五郎が、庭先で、酔いから醒めた瞬間に、主計之助が登場して、自分の短慮を認めて謝ると言う舞台展開になることである。
   
   お蔦の不義の話だが、
   飼い猫を探しに閻魔堂まで出てきたお蔦を、横恋慕した典蔵が、お蔦が殿さまから預かっている井戸の茶碗(猫に飛びつかれて落として割る)を盗みだし、これを利用してお蔦を我が物にしようとして争ううち気絶したお蔦の帯を解こうとしたが、そこへ悲鳴を聞いて駆けつけてきた浦戸紋三郎(友右衛門)に、気が付いたお蔦が、典蔵一味の企みを聞いてしまったことを打ち明けようとするのだが、そうはさせじと典蔵は灯籠の火を吹き消し、「不義者!」と叫んで二人に無実の罪をきせ、逃げようとするお蔦の帯を奪いとる。その様子を家老の浦戸十左衛門が見ていたのである。帯を証拠に、お蔦との不義の罪を擦り付ける。と言う訳である。

   ところが、典蔵と吾太夫兄弟が、悪巧みの相談中に、磯部主計之介が現れれたので、殿さまの酒ぐせが悪いのを利用してどんどん酒を注いで、帯を見せて、紋三郎とお蔦に不義の罪をでっち上げる。主計之介はお蔦と紋三郎が不義を犯したとは信じられないが、お蔦にあずけた大切な井戸の茶碗が弁天堂の床下から発見され、しかも割れていたと知って動揺し、一気に怒り心頭に達して、お蔦を呼び出して、一切の抗弁も聞かずに、主計之介はたぶさをつかんで引きまわし、ついに庭の井戸にお蔦を切って捨てる。

   その後が、「魚屋宗五郎」の舞台なのだが、悲嘆にくれている宗五郎宅に、磯部家に奉公する召使のおなぎ(高麗蔵)が弔問にきて、不義疑惑からお蔦御手打ちの経緯を語ったので、断腸の悲痛となった宗五郎が、酒を断った筈が居た堪れなくなって、おなぎの持参した酒に手を付けて酒乱となって、磯部家へ殴り込む。と言う寸法である。

   この「新皿屋輔月雨暈」だが、良く考えてみれば、酒と言うか、酒乱と言うか、酒癖の悪さが、重要なサブテーマと言う感じで、話の重要な展開は、酒が絡んでおり、重要な登場人物である宗五郎も主計之助も、言うならば酒乱であり、その酒乱ぶりを如何に上手く演じるかに、舞台がかかっていると言っても不思議ではない。

   まず、主計之助だが、酒癖の悪さを熟知してこれを利用して騙し続けて伸し上ってきた典蔵兄弟に、まんまと乗せられて、酒を立て続けに注がれて、どんどん、テンションが上がって行き、後先の見境も正常な判断もなくして崩れて行くお殿様を、染五郎は、実に上手く演じていて、颯爽とした風格のあったお殿様が、少しずつニヒルな雰囲気を醸し出して怪しくなって行く様子など、流石に見事である。
   それに、あれ程愛し愛され愛しんできた筈の愛妾お蔦を、愛しさ余って憎さ百倍、たぶさをつかんで引き回して、井戸に切って捨てると言う姿には、酒乱を通り越して鬼気迫る迫力があった。
   終幕の宗五郎との対面の場である「磯部屋敷庭先の場」のお殿様は、風格十分で素晴らしい出来だと思うが、これは、三津五郎や錦之介も素晴らしい舞台を見せてくれており、良くて当たり前だと思うが、私は、今回、第二幕の「磯部邸井戸館詮議の場」の染五郎の演技が素晴らしいと思って見ていた。

   「魚屋宗五郎」は、勿論主役は宗五郎だが、やはり、酒の飲みっぷりを横糸にして、如何に、兄の宗五郎の妹お蔦への思いを、断腸の悲痛に追い込んで行く心の軌跡を紡ぎ上げて行くかと言うことであろうと思う。
   幸四郎が酒好きかどうかは知らないが、実に酒の飲みっぷりはうまいと思う。
   しかし、私が感心したのは、幸四郎は、はっきりと酒を断ったと言う前提で演技をしていることで、酒が好きだから禁を破って酒に手を付けたと言うのではなく、心の整理をした上で、必然的に酒に手をだし、徐々に抑えが利かなくなって溺れて行ったと言う感じで演じていたように思う。
   したがって、おなぎの話を聞いた時には、怒りよりもむしろ悲しみの方が強くて、それが、正気を失って行くうちに後先が朦朧となって、徐々に、理不尽な殿の仕打ちに対する怒りが増幅して行き酒乱状態になって行く、その心の軌跡が実に緻密に計算されていたような感じがして、流石だと思って見ていた。
   この酒に酔うと言う単純だが、ある意味では、酒乱状態になった時には、最高に精神状態が昇華された状態で、能の舞台のように、無駄なものは一切削ぎ落とされてエッセンスだけが残って、その精神状態の演技だけが表現されている。
   私は、幸四郎の舞台を見ていて、そんな感じがしたし、そう思えば、酔いから醒めた宗五郎の地に戻った表情の秘密も分かるし、いずれにしろ、酒と言う小道具と言うか手段を実に上手く使って、酒飲みを演じるだけではなく、心の軌跡を前面に押し出して演じているからこそ、宗五郎の生き様が冴えて来るのだろうと思う。
   上手く表現できないが、このあたりの幸四郎の凄さは、流石であり、染五郎の復活舞台への素晴らしいオマージュであったのではないかと思っている。

   福助は、薄幸のお蔦と宗五郎の女房おはまを演じたが、流石に、両方の舞台の使い分けが上手い。
   お蔦の方は、風格十分で、庶民出の若い愛妾と言った感じよりも、もっと成熟した高級な上臈と言った雰囲気だったが、お蔦部屋での憂いに満ちた覚悟を決めた女の悲しみの表情や、お蔦殺しの場での、主計之助への必死の願いなど、中々魅せてくれた。
   女房おはまの砕けた庶民然としたおかみ姿も、中々堂に入って良い。

   泰然とした重厚な演技の左團次、威勢よくテンポの爽やかな小奴三吉の亀鶴、嫌味たっぷりの典蔵の桂三、いぶし銀のような父親太兵衛の錦吾。
   それに、随分大きくなって颯爽と可愛い酒屋丁稚与吉を演じていた金太郎が素晴らしい。

   さて、これまでは、二回、魚屋宗五郎を観ていて、二回とも、宗五郎は菊五郎で、おなぎは菊之助、おはまは、玉三郎と時蔵であったが、いずれも、素晴らしい舞台で、ブログに記録済みなので蛇足は避ける。
   しかし、江戸歌舞伎の世話物で、他の演目もそうだが、菊五郎と幸四郎と言う質は違うのだが、非常に上質で、中身の濃い素晴らしい舞台を鑑賞できるのは、非常に幸せなことだと思っている。

   なお、当日、「義経千本桜」の「吉野山」の美しい舞台が、染五郎の源九郎狐、福助の静御前、亀鶴の逸見藤太で演じられており、目の覚めるような鮮やかな舞台であった。
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