今月の国立劇場の文楽は、3部制で、夫々、「摂州合邦辻」と「妹背山婦女庭訓」の通し狂言の一部なのだが、第二部だけが、アラカルトブログラムで、非常に面白い。
最初の「小鍛冶」は、能の文楽版であり、刀鍛冶のどことなく厳かな雰囲気があって、清十郎の老翁・稲荷明神が中々風格のある人形を遣っており、
「曲輪文章」は、歌舞伎版との微妙な違いなどが面白く、大坂の遊郭をバックにした勘十郎の夕霧と玉女の伊左衛門の醸し出す一寸時代離れした華やかな雰囲気が、中々堂に入っていて楽しませてくれる。それに、嶋大夫の浄瑠璃と富助の三味線が、実に情緒豊かで、特に、夕霧の切々と訴える口説きなど感動的である。
データを見ると、曲輪ぶんしょうは、大阪の文楽劇場でしか上演されておらず、2003年までは、玉男と簑助のコンビで、伊左衛門は玉男で夕霧は簑助であったが、2009年では、伊左衛門が勘十郎で夕霧は和生であった。
今回の玉女と勘十郎は、夫々、玉男と簑助の一番弟子同士であるから、二人の芸の継承と言うことであろうか。
歌舞伎の方の「廓文章」は、仁左衛門と玉三郎、仁左衛門と福助、それに、藤十郎と魁春の舞台を見ているのだが、この頼りないが気位だけは高い大坂の大店のぼんぼんである伊左衛門は、やはり、上方歌舞伎の二人にしか醸し出せない世界だと思うのだが、相手の夕霧は、東京オリジンの3人の華麗な女形の演技が、実にしっくりと舞台に馴染んでいるのは、不思議なくらいである。
歌舞伎の舞台と文楽の舞台と見比べていて、何故か、歌舞伎の方は、伊左衛門の方の演技の方に気が行って、文楽の方は、夕霧の伊左衛門への思いの深さ、切々と苦しい胸の内をかき口説く心根の優しさの方が気になって、主客が逆転するのが面白いと思っている。
これは、やはり、床本の名調子と大夫の語りの魅力だと思うのだが、ずっと、切り場は、嶋大夫と富助が務めているようで、正に、絶品と言うことであろう。
文楽の方は、夕霧が、すねて真面に対応してくれない伊左衛門に縋り付いて胸の内を語りかけるのだが、伊左衛門は、置炬燵を持って逃げ回る。歌舞伎の方は、隣の座敷で客を相手にしている夕霧の方が気になって、居たり立ったり、夕霧が登場するまでの伊左衛門の締まりのないオチョッコチョイぶりが見せ場になって、このあたりの藤十郎と仁左衛門の芸は秀逸である。
夕霧の方は、伊左衛門が来なくなって病気になってしまったのだが、伊左衛門は勘当の身で不如意となって廓に通えず、今回も紙子を着てやって来る。廓の夕霧が、客を取るのは当然だが、伊左衛門は嫉妬してすねてソッポを向いて相手にしようとしないと言う実に不甲斐ない男で、これが、華やかな遊郭を舞台に、ほんわかとした華やいだ雰囲気を醸し出すのだから、面白いのである。
最後の「関取千両幟」は、「猪名川内より相撲場の段」だけだが、恩義ある人のために金の工面が出来なくて、相撲の取り組みで負けざるを得なくなる猪名川を、妻のおとわが、苦界に身を沈めて助けると言う夫婦愛の物語で、源大夫が病気休演であったが、簑助の女房おとわの実に惚れ惚れするような女ぶりに感激しきりで、それに、5分以上も続くアクロバティックとも言うべき、実にすばらしい「櫓太鼓曲弾き」三味線2重奏を、藤蔵と清志郎が奏して、満場の観衆を唸らせる。
簑助のおとわは、金のために相撲に負けなければならない無念さに苦悶する夫の乱れた髪を撫で付けながら、何故その思いを言ってくれないのかと語る姿の優しさ温かさを、実に情愛を込めて演じる。情感豊かに奏される《髪梳き》胡弓が美しくも切ない。
何故、これ程、女らしくて、そして、その立ち居振る舞いが、優雅で美しいのか、簑助の遣う人形を観ていて、何時も感激しながら見ている。
このような女房おとわだからこそ、夫を相撲場へ送り出すとすぐに、遊郭に駆け込んで自分の身を売って資金を拵えて、
取り組み途中に、呼び込みの「進上 金子二百両 猪名川様贔屓より」と声がかかって、意を決した猪名川が勝つ。
幕切れに、籠で送られて行くおとわが、すれ違った猪名川に、そっと、籠の窓から顔を覗かせて、別れを告げるほんのわずかなワンショットでさえ、簑助の遣う人形は夫への情愛に咽んでいて、その息遣いさえ聞こえてくるのである。
さて、この舞台は、相撲場の段では、実際に土俵が設けられて、猪名川と鉄ヶ嶽(文司)との取り組みが演じられて、櫓太鼓の軽快な音色が雰囲気を盛り上げ、ホンモノに紛うほど名調子の呼び出しや行司の声音が魅力的である。
前述した曲弾きだが、「感動手習帳」の記述を引用させてもらうと、
音羽が、相撲場に向かった猪名川を追って下手小幕に入ると、囃子に続いて三味線は、「櫓太鼓曲弾き」。櫓太鼓を表現。
ここでは、約5~10分の、三味線の曲弾きソロ。二と三の糸の間にばちを通して抜き取る。(三味線が傷だらけになるので、曲弾き用を使う。)、胴の木枠をたたく、胴を上にして三味線を立てる、ばちを放り投げて受け取る・・等等。
私には、三味線の奏法は良く分からないのだが、あの津軽三味線の演奏を聴いていてもびっくりするのだが、実に表現が豊かで凄い楽器だと思う。
能や狂言は、まだ、三味線がなかったので使われていないのだが、遅れて生まれてきた歌舞伎や文楽の芸の豊かさ奥行きの深さの一端は、三味線に負うところが大きいのではないかと思っている。
最初の「小鍛冶」は、能の文楽版であり、刀鍛冶のどことなく厳かな雰囲気があって、清十郎の老翁・稲荷明神が中々風格のある人形を遣っており、
「曲輪文章」は、歌舞伎版との微妙な違いなどが面白く、大坂の遊郭をバックにした勘十郎の夕霧と玉女の伊左衛門の醸し出す一寸時代離れした華やかな雰囲気が、中々堂に入っていて楽しませてくれる。それに、嶋大夫の浄瑠璃と富助の三味線が、実に情緒豊かで、特に、夕霧の切々と訴える口説きなど感動的である。
データを見ると、曲輪ぶんしょうは、大阪の文楽劇場でしか上演されておらず、2003年までは、玉男と簑助のコンビで、伊左衛門は玉男で夕霧は簑助であったが、2009年では、伊左衛門が勘十郎で夕霧は和生であった。
今回の玉女と勘十郎は、夫々、玉男と簑助の一番弟子同士であるから、二人の芸の継承と言うことであろうか。
歌舞伎の方の「廓文章」は、仁左衛門と玉三郎、仁左衛門と福助、それに、藤十郎と魁春の舞台を見ているのだが、この頼りないが気位だけは高い大坂の大店のぼんぼんである伊左衛門は、やはり、上方歌舞伎の二人にしか醸し出せない世界だと思うのだが、相手の夕霧は、東京オリジンの3人の華麗な女形の演技が、実にしっくりと舞台に馴染んでいるのは、不思議なくらいである。
歌舞伎の舞台と文楽の舞台と見比べていて、何故か、歌舞伎の方は、伊左衛門の方の演技の方に気が行って、文楽の方は、夕霧の伊左衛門への思いの深さ、切々と苦しい胸の内をかき口説く心根の優しさの方が気になって、主客が逆転するのが面白いと思っている。
これは、やはり、床本の名調子と大夫の語りの魅力だと思うのだが、ずっと、切り場は、嶋大夫と富助が務めているようで、正に、絶品と言うことであろう。
文楽の方は、夕霧が、すねて真面に対応してくれない伊左衛門に縋り付いて胸の内を語りかけるのだが、伊左衛門は、置炬燵を持って逃げ回る。歌舞伎の方は、隣の座敷で客を相手にしている夕霧の方が気になって、居たり立ったり、夕霧が登場するまでの伊左衛門の締まりのないオチョッコチョイぶりが見せ場になって、このあたりの藤十郎と仁左衛門の芸は秀逸である。
夕霧の方は、伊左衛門が来なくなって病気になってしまったのだが、伊左衛門は勘当の身で不如意となって廓に通えず、今回も紙子を着てやって来る。廓の夕霧が、客を取るのは当然だが、伊左衛門は嫉妬してすねてソッポを向いて相手にしようとしないと言う実に不甲斐ない男で、これが、華やかな遊郭を舞台に、ほんわかとした華やいだ雰囲気を醸し出すのだから、面白いのである。
最後の「関取千両幟」は、「猪名川内より相撲場の段」だけだが、恩義ある人のために金の工面が出来なくて、相撲の取り組みで負けざるを得なくなる猪名川を、妻のおとわが、苦界に身を沈めて助けると言う夫婦愛の物語で、源大夫が病気休演であったが、簑助の女房おとわの実に惚れ惚れするような女ぶりに感激しきりで、それに、5分以上も続くアクロバティックとも言うべき、実にすばらしい「櫓太鼓曲弾き」三味線2重奏を、藤蔵と清志郎が奏して、満場の観衆を唸らせる。
簑助のおとわは、金のために相撲に負けなければならない無念さに苦悶する夫の乱れた髪を撫で付けながら、何故その思いを言ってくれないのかと語る姿の優しさ温かさを、実に情愛を込めて演じる。情感豊かに奏される《髪梳き》胡弓が美しくも切ない。
何故、これ程、女らしくて、そして、その立ち居振る舞いが、優雅で美しいのか、簑助の遣う人形を観ていて、何時も感激しながら見ている。
このような女房おとわだからこそ、夫を相撲場へ送り出すとすぐに、遊郭に駆け込んで自分の身を売って資金を拵えて、
取り組み途中に、呼び込みの「進上 金子二百両 猪名川様贔屓より」と声がかかって、意を決した猪名川が勝つ。
幕切れに、籠で送られて行くおとわが、すれ違った猪名川に、そっと、籠の窓から顔を覗かせて、別れを告げるほんのわずかなワンショットでさえ、簑助の遣う人形は夫への情愛に咽んでいて、その息遣いさえ聞こえてくるのである。
さて、この舞台は、相撲場の段では、実際に土俵が設けられて、猪名川と鉄ヶ嶽(文司)との取り組みが演じられて、櫓太鼓の軽快な音色が雰囲気を盛り上げ、ホンモノに紛うほど名調子の呼び出しや行司の声音が魅力的である。
前述した曲弾きだが、「感動手習帳」の記述を引用させてもらうと、
音羽が、相撲場に向かった猪名川を追って下手小幕に入ると、囃子に続いて三味線は、「櫓太鼓曲弾き」。櫓太鼓を表現。
ここでは、約5~10分の、三味線の曲弾きソロ。二と三の糸の間にばちを通して抜き取る。(三味線が傷だらけになるので、曲弾き用を使う。)、胴の木枠をたたく、胴を上にして三味線を立てる、ばちを放り投げて受け取る・・等等。
私には、三味線の奏法は良く分からないのだが、あの津軽三味線の演奏を聴いていてもびっくりするのだが、実に表現が豊かで凄い楽器だと思う。
能や狂言は、まだ、三味線がなかったので使われていないのだが、遅れて生まれてきた歌舞伎や文楽の芸の豊かさ奥行きの深さの一端は、三味線に負うところが大きいのではないかと思っている。